思い込むとやけどする
ニューヨークのコロンビア大学医学部のハーバート・スピーゲルが実験したことだ。彼はイマジネーションを利用する実験で、米国陸軍のある伍長を被験者にした。彼は、この伍長に催眠術をかけて催眠状態にしたうえで、その額にアイロンで触れる、と宣言した。しかし、実際には、アイロンのかわりに鉛筆の先端で、この伍長の額に触れただけだった。
その瞬間、伍長は、「熱い!」と叫んだ。そして、その額には、みるみるうちに火ぶくれができ、かさぶたができた。数日後にそのかさぶたは取れ、やけどは治った。この実験は、その後四回くり返され、いつもまったく同じ結果が得られた。
さて、五度目の実験の時には、状況はやや違っていた。この時には伍長の上官が実験に同席していて、この実験の信頼性を疑うような言葉をいろいろ発していた。被験者に迷いや疑惑を生じさせる状況のもとでおこなわれたこの時の実験では、もはや伍長にやけどの症状が現れることはなかった。
スピーゲルは、健康や病気、また、病気からの回復にはさまざまな要因が影響をおよぼし合うと考えている。生理的、心理的、そして社会的な諸要因が相互に関係をもちながら、わたしたちの内部で働いていると言っているのだ。プラシーボ効果を理解するためには、心と体、そしてその両者の関係を促進したり制限したりする第三の要因としての環境状況を考えにいれる必要がある。そして、これら三者を結びつけ活性化するものとして、著者は、言葉のもつ重要性に着目したいと思う。
「心の潜在力プラシーボ効果」 広瀬弘忠 より
「プラシーボ」「プラセボ」という言葉は今まで聞いた事があるかと思いますが、その反対が上記のノーシーボという効果になります。プラシーボはご存知の通り、全く効果がないであろうモノを(小麦粉やビタミン剤の類)患者に良い薬であると投与すると、良い結果が生じるというお話ですね。
ノーシーボはその逆で、患者に毒であると思い込ませたところ、小麦粉やビタミン剤であっても死にまで至る事例が数多くあったようです。
治療家側の発する言葉、雰囲気、治療室の環境等々は、患者の治療効果やその後の結果を大きく左右するものかと思います。
同じ医師だとしても、白衣姿とジャージ姿では、患者の受け止める姿勢も治療効果も段違いに違ってくるのではないでしょうか。
では、我々鍼灸師と患者という立場に置き換えてみてはどうでしょうか。
現代においては「医師>>>>>鍼灸師」位の権限力の差があります。
つまり、我々は悔しくも相当なマイナスからスタートしなければならない状況なのです。
更に、「痛そう」「熱そう」「怖そう」
このようなネガティブなイメージも付き纏うのが鍼灸です。
このような想像は仕方ないと思っています。
患者の立場として見たら、金属の針を身体に刺され、乾燥させたヨモギでヤケドを作られる訳ですから。
しかしながら、このようなイメージは私達が日々結果を残していけば改善されてくるかと思います。
実際に、効果があれば「痛そう「熱そう」等のイメージは払拭される訳ですから。
何より鍼灸師にとって一番怖いのは、
「鍼灸って効かない」
と治療前から思われている事です。
鍼灸師、柔道整復師含め、昔は花形と言われたこの資格も、福岡裁判以降は養成校が乱立し、誰でもなれる職業へと変わり、数多くの資格取得者が世に出てきます。私の卒業した新大久保の学校も、最盛期は倍率が40倍も50倍もあったと聞いてます。
全て受け売りの治療方法、治らなければ治療法への責任転嫁。そして患者への責任転嫁。姿勢が悪いからだ、体重が重いからだ、酒を飲みすぎるからだetc…。自分の治療技術がないばかりに良くする事が出来ず、無効の治療を延々と繰り返していくばかり。一切自分の責任だとは考えない人間達です。
患者の鍼灸へのイメージが「痛そう」「熱そう」というから、刺さない鍼に熱くないお灸を売りにした結果、効果を出せずに看板を下ろした治療院を見ました。
医師が治せない病だからと言って、我々も一緒に匙を投げて良いのか。
患者が「もう治らないって医者に言われたよ」と言ってきたところで、我々も患者と共に失落して良いのか。
現況は、鍼灸に対してネガティブな想いを持っているにも関わらず来院された患者に対して、効果を上げていかねばならないという、ハードルの高い状況となっています。
我々は白衣を着ても、難しい単語を並べても、一流ホテルの如くサービスに徹しても、最終的にはどのような治療法よりも効果を出さなければ納得してもらえないのです。
とにかく今は、1人1人の患者に納得してもらえるまで効果を出し続けるしか開ける道はないのです。
極論を言えば、我々が治療前にどれだけノーシーボ的な発言をしようとも、最終的には効果を出せる技術を持ち合わせていなければ勝ち目はないところまで追い詰められていると思います。