藤原航太針灸院

痛み・痺れ・麻痺・自律神経症状の難治例の検証と臨床

「心因性」「思春期」「成長期」「更年期」「精神異常」と言う通説から見る医療2


メディア的にもセンセーショナルな症例を取り扱うようになれば様々な横槍や足の引っ張りと言うのは珍しくないものです。恐らく、これはウチのような業界に限らず、何処でも起きていると思います。新商品の開発であれマスコミであれ。
誰かが何かで回復すると、誰かが僻みヤッカムのは仕方ありません。身体の問題が医療で完結出来ているのであれば、様々な健康食品やサプリメント、運動や体操等で世の中が溢れている訳はないからです。
お互いが其れで切磋琢磨出来るのが本当に良い循環かなと思いますが、如何せん上手くいかないものです。前々から述べているように臨床医学と言うのは非常に獰猛な世界で、プライドが恐ろしい程に高い世界です。
こないだも書いた通り、脊椎変性疾患の手術を数回しても症状変わらず(寧ろ憎悪し)、入院先が整形外科から精神科へ移り、散々薬漬けにされた話を書きました。別にこのような話は珍しくありません。それが現行医療の当たり前なのですから、今更私が批判しても仕方ありません。こんなもんだと思うしかありません。
精神異常としなければ、自身のプライドが許せない、自分の技術は絶対だ、(写真では)キレイになったじゃん、もう身体的には何処も悪くないからアンタは精神異常だ、そのような超上から目線が在る限り状況と言うのは今後も変わらないものだと思います。但し、これでは本当に何もかも進まない。
こちらは超泥水を啜って患者と向き合っていると言うのに、医療と言う冠が付くだけで、何て果てし無く美しくそびえ立つ存在だと常々思います。そして、このような患者を回復させようもんならどうなるか知ってますでしょうか。以前も書いた通り、某教授から「あそこの針は危ない」「その針は危ない」なんて訳の分からない事を患者は言われて帰ってくるわけです。
薬物治療や観血的治療(手術)のリスクと、針治療のリスク、共に作用を求めれば反作用は伴う手段ではありますが、どちらがリスキーな手段であるかは素人だって分かります。
治しちゃったら、治っちゃったら向こうも患者を言いくるめようがない。偶然だ、嘘だ、捏造だ、サクラだです。だから訳の分からない理由を患者に告げてプライドを保とうとする。自分の名前すら言えなくなるほど、そしてヨダレを垂れ流しても気づかぬ程に薬漬けにされ、車椅子でしか動けなかった人間が杖歩行となり、そして杖を外せるようになった。何年も数メートルしか歩けなかった人間が今は仕事している。それが全てではないかと思う。
そもそも、何でこのような事が起きているかと言うと、現行医療の中心は薬物治療や手術で「治らない」場合、「精神異常」にしても許されてしまう事に端を発しているものです。だから「心因性」「思春期」「成長期」「更年期」「精神異常」の分野は特に改善への発展性がなく最後は薬漬けになるのです。これでは先程も書いたとおり、本当に何もかも進まない。片や精神異常で何もかも片付けられ次の患者に移る事は出来ますが、片や薬漬けで人生を破壊されているのです。患者1人の人生を何だと思っているのでしょう。
親御さまは同一症状を抱える方々へ様々な治療情報を提供され、共有されようと無益無心となり帆走されている姿も時としてお見受けします。でも、その多くは徒労で終わっているケースが大半です。これは治療や回復過程に対しての内容云々と言うよりも、肩書きや権威で人間は靡き、且つメディア出演等に伴うブランディングに乗っている為であり、それらの演出を消す為に私は「針師」としか書かず、退路を断ち続けている訳。
肩書きや権威や他免許も公表する事なくいると、周囲の動き、周囲が何を考えているかと言うのが手に取るように分かるものです。と言う訳で、冒頭で書いたようなメディア的にもセンセーショナルな症例に関しても、肩こり的なカジュアルな症例に関しても周囲を渦巻く環境と言うのは案外大差ないものです。

言葉の定義や病態定義、治療手段の定義と言うのは存在するだけ鬱陶しさを感じるものですが、人それぞれ考え方と言うのは異なるものでしょう。人それぞれ考え方が異なる為に、新たな発見や発明、発案と言うのが生まれるものかもしれませんので、その部分に対して言及する事は誰しも出来るものではありません。
私もそうです。手術だ薬物だ元症状だで絡み合った患者の症状は、世間一般の凡ゆる推奨事項で起きたエラーの上乗せや蓄積で発生した事実と向き合う訳なのですから、前例がないケースも多くあり「手探り」と言う言い方以外に言葉は見つかりません。
脊椎変性疾患に対しての術後後遺障害やそれに伴う自律神経症状等であれば然程面倒臭くはないものですが、前々から述べている向精神薬が絡んだ場合、様々な障壁が生まれる事は書きました。減~断薬には患者自身の努力が極めて必要となり、治療ベッドに寝ていれば治ると言うものでもありません。様々な誘導にも負けず、ジリジリと日々を自分自身と向き合うのも辛いかもしれませんが、無事に断薬に成功し、社会復帰していった人も多くいます。
しかし、現行医療の主本は薬物治療であり、端から早期発見早期診断適切な治療をスローガンに抱えた状態により、幼少期から薬漬けにされている人、いきなり薬漬けにされた人、様々いるものです。見方を変えれば、其れ程迄に病態定義が不明瞭な病気と言うのが存在する裏返しなのかもしれませんし、
自分達の物差しとは異なる人間の排除、優生学的な考えに基づいた弊害なのかもしれません。現に薬漬けになった場合、後々本当に大変な事態になる事は幾度となく述べてきたつもりですが、誰を恨むもその遣り方が推奨されている以上、怒りの矛先は何処に向けたら良いのか悩む人も少なくありません。
結果、薬物から本当に抜け出せなくなった人も多数存在しますし、薬物に人生を捧げ、魂を売った人もいます。それでも最後の最後には薬を止めたら良くなったとかコントみたいな状態の人も沢山います。結局、これらの薬物は何だったのだろうかと疑問に思う時間を過ごす人も多いものです。

様々な症状が世の中にはありますが、その症状に対し原因が解明されるまで、そして医学的根拠とか科学的根拠と言うのが明確になり、確固たる治療手段と言うのが現れるまで待つ人と言うのも沢山います。原因が如何なるものであろうが、そして確固たる根拠がなくても今の症状が辛いが為に手探りしながら治療手段を見つける人も沢山います。これもタイミングとか縁とか、患者自身が過去から見てきた自身の身体や医療と言う背景によっても左右されるものかもしれません。
この2群の根本的思考は前者が受身的と言い、後者が自発的であると言う意味が分かりますでしょうか。多くは日常性が高い諸症状ほど受身になります。救急車で運ばれれば何かしてくれるかもしれませんが、人間は中々自身の諸症状が軽度であればあるほど積極的治療は求めない生き物かもしれません。しかし、重症度が高くなればそうも言ってられず何処かの門を叩く事にはなるかもしれませんが、その治療が何なのかで大きく異なってくるものです。
例えば確固たる根拠がある場合(その確固たる根拠と言うのが現時点で私もよく意味が分かりませんが)治癒改善率と、治癒改善率迄のリスクと言う面で見れば前者は高率であるかもしれませんし、後者は低率となるかもしれませんが、面白い事に現行医療では前者だろうが後者だろうが最後は鎮痛剤と向精神薬です。どの道この道、現行医療では治療抵抗性が著しく高いのが日常を起因とした諸症状であり、薬物治療の限界、そして中長期的に渡る薬物治療の弊害と言うのは著しいものです。

改めて人間の身体で発生した症状に対しての治療手段の「根拠」とは何でしょうか。治療手段に明確な根拠と言うのは存在するものでしょうか。先程から私は「確固たる」とか「根拠」と書いていますが、これは治癒改善率云々と言うレベルを超えた100%の物事に対して当て嵌められる言葉であると考えており、その治癒率を限りなく上げる為の努力と言うのは誰しも惜しんでいはいないと思いますが、
どの業界でもそうかもしれませんが、とある症状に対してとある治療をしたとします。そして良くなったと。その事に対して「どの論文に載ってた?」「どの本を参考にした?」と鬱陶しいほどに根拠を求めてくる人と言うのは内外にいると思いますし、実際に言われた人もいるかもしれません。
しかし現実問題として、多くの諸症状と言うのは論文通りの症状を呈している人なんて何れ位の割合でいるでしょうか。同一症状を呈していても、画像所見も神経学的所見も全く異なります。整形領域疾患で医療機関から手術を勧められるのは比較的シンプルな高率で治る患者にしか手術しないと言う話はよく聞きます。
そもそも論とし、その論文や本と言うものに、どの部分に対し確固たる価値を求めてそのような発言をしているのかも知らなければなりません。その1つに再現性や確実性を求めての事かもしれませんが、如何せん、その再現性も確実性も患者自身の治療反応性から積み上げていく部分と言うのは多いものです。

所見の陽陰性問わず、同一症状を抱えている場合、それは異なる病態であると言う意味ではなく、そもそもの画像所見や神経学的所見の根本的な意味や必要性も考えたくなる時もあるものです。其れ程迄に陳旧性の高い諸症状と言うのは何から何まで曖昧になってきます。
薬が効かない手術で治らないなんて話は私以上に実体験しているとは思いますから、術後芳しくないだろうと予測される患者に対しては、自身の治癒改善率を下げない為にも極力手術はせず、投薬等で様子を見るか精神科送りにしている状況が散見されるようになり久しいものです。
さて、そのような不遇な状況に追いやられてしまう患者も少なくありませんが、何故このような状況が起きるのかを改めて考えれば、1)自身の治癒改善率を下げたくない為、2)後々面倒臭い状況に追い込まれたくない為、が先ずは考えらます。
1)、2)とも患者の事は考えていないような傾向かもしれませんが、手術をしても治らないだろう、症状に変化はないだろうと敢えて手術をしない選択をするのは1つの親切心だと受け止められますが、それならその先の薬漬けだけにはしないでほしい、精神科送りにしないでほしいと言うだけですが、
これが案外どのような人が薬漬けになるか、そしてどのような人が薬漬けにならないかと言うのも傾向としてあり、患者の職業によって左右されているようにも見受けられます。先日も述べた(何年前だ?)通り、医療関係者の場合はワクチン手帳が真っ白でも何も言われない場合も多いのですが、非医療関係者の場合、ワクチン手帳が真っ白だと何を言われるか分かったもんじゃなく、虐待行為と見做され児童相談所に連れて行かれる場合もあります。
このように、知っている人、知っているだろう人にはお咎めないと言う、既に相手次第でどうにでも変動するワクチンや薬、手術の意味や意義、価値と言うのは、既にどうでも良い世界である側面も伺い知れるものです。医療関係者ほど、術後に症状の変動がないからと言っても薬漬けには成り難い。傾向と言うのはあるものです。

前置きが長くなりましたが、あくまで医学的根拠も科学的根拠も凡ゆる他の根拠と言うのも、その多くは同一の痛みを知らない何処かの研究者が、そして何処かの私達と同じ人間が作っていると言う事も改めて考えれば、今現在抱えている痛みは自分自身が1番正答率が高い論文となり本となり根拠となるのです。しかし、それでは医学が進まないとし、似たような症状の人を集めて様々な検証を行います。
結果、集団で得た情報、そして治療と言うのはどうしても精度が右肩下がりとなる側面もあり、その集団で得た精度の落ちた情報を根拠として治療手段を模索するよりであれば、目の前の個の情報を収拾でき、且つ即時的に対個人で負荷的要素の軽微な治療手段を行える立場と言うのは極めて高い精度で治療が行えるものかもしれません。
論文と言うのは自身の都合の良いように幾らでも書き換えられている可能性がある事も知らなければなりません。如何なる副作用や合併症も少ないほど、論文に書かれている手段と言うのは評価が上がる為、文字だけに起こされた内容だけを読んで鵜呑みにすると言うのも危険なものです。

但し書きが膨大となる為にピックアップして書きますが、先日も述べた通り、私は医療や代替医療と言う線引きや区分けは総じて好きではなく、且つ症状発症の大元の起因は当該細胞部位の栄養供給の不安定さに伴い、そしてそれが2次的3次的4次的5次的に絡み合った結果が、その段階毎で病名が異なり定義が異なっていくと書きました。安全に治るか治らないかだけが大切なポイントだと思っています。
そして鎮痛剤や向精神薬、種々対処療法と言うのは使う人を選ぶと言う事。使うタイミングと使い方が逸脱した場合、治るものも治らず、治癒遅延を引き起こし、要らぬ副作用やその後に尾を引く可能性も高い事も書きました。このように、対処療法とは人を選ぶ手段であるのかもしれませんが、現実は散蒔かれている、そして延々と繰り返す為に要らぬリスクが累積されていく状況でもあり、恐らく今後もこのような状況は続く為、患者自身が何処かで気づかなければ終わらないと言う状態に陥りかねません。
症状を抱えたネガティブな環境に陥っている場合、何かしかの治療手段を模索する事になるかもしれませんが、様々な不安と言うのも患者は抱える事になると思います。その1つである再発と言う部分にスポットを当てて考えようかと思うのですが、再発するか?再発しないか?と言う定義も又曖昧なものなのです。再発したか、再発しないかと言うのも一重に患者自身が再度「症状」として自覚する事を再発として捉えるのが良いと思いますので、現状の画像所見がどうこうとか、数値がどうこうと言うのは価値のあるものではないとも思います。人間と言うのは経時経年で適応出来る生き物であると思います。
幾ら脊椎が不安定であっても、各関節の摩耗が進行しきっていても、脈管の通り道が何処からどうみても狭小化されていようが「症状として出ないように」経時経年で適応出来る生き物だと思います。只、「今」の症状が厳しいと、不安や焦燥と言う感情が湧き上がる為に薬や手術に手を出す、出したがると言うだけの話であり、自分の身体を不信に思ってしまった事が治癒遅延を招く1つの要因でもあるかもしれません。自分自身の身体を信じていれば、何もせずとも症状は落ち着くものです。
脊椎が不安定であれば、健常な人間と比べれば易損傷傾向、易再燃傾向と言うのはあるかもしれません。その為、骨性的に既に不安定になった人であればあるほど、再発率と言うのも上がるかもしれませんが自己のキャパを既知していれば然程再発率と言うのも上がらないと思います。自身の都度都度のキャパ内で適応を繰り返していけば、いずれ過去以上のキャパは獲得出来るものでもありますが、それは1~2日で成し遂げられるものではないでしょう。その為、焦りは禁物なのです。
結論としては、再発するか否かと言う問いには再発する可能性はあるとしか答えられないのですが、これは誰しも可能性は持っている訳ですから、誰にでも同じ答えしか出来ません。但し、その再発と言う意味を患者自身がどのように捉えるか、と言うだけの話です。

例えば石に手をぶつけて怪我をして、流れた血が止まったけど、また石に手をぶつけて血が流れたから「再発した」と思う人はいないと思います。カサブタを無理やり取ってしまい、血が流れてしまった事に対して「再発した」と思う人はいないと思います。健全な人であればこのような事象に対して「再発した」と思う事はないのですが、これを「再発した」と思う人もいます。
ペンキを塗って暫く乾かした後のベンチであれば、座ってもズボンにペンキは付かないかもしれませんが、乾ききらぬ内に座ればズボンにペンキは付くと思います。現状の自身のキャパを自身で把握しなければならないのが日常生活を起因として起きる諸症状との向き合い方なのかもしれません。
日常生活を営みながら、常に回復と悪化を天秤に掛けつつ症状回復に努める場合、時に回復過程も不安定、不確定要素は付き纏うものです。それが、重症度が高ければ高いほど初期は不安定なものかもしれませんが、案外これは当たり前の話なので、そこの理解の差も自身の抱える症状の治癒速度を変動させる部分かもしれませんし、心因性」「思春期」「成長期」「更年期」「精神異常」と仮に言われた場合の捉え方の違いに繋がるかもしれません。
負荷を掛けた日常を送り続ける場合、回復は遅いものです。負荷を取り除いた日常を送り続けた場合、回復は早くなります。しかし、様々な治療手段や運動、体操の中には症状の回復と逆行させる手段と言うのも多数含まれます。その1つが集団行動であり、規律規範に沿った行動様式であり、ビジネスライクな運動や体操であり、病態の根源とは逆を行く治療手段である事が表面化しているものです。
私は肩こりや腰痛と言う一見「筋肉」「筋膜」と言われる細胞が傷んだような症状に対しても「筋肉」「筋膜」を標榜した治療を行わない事を以前書きました。以前は標榜した治療を行っていた節はありましたし、治療と言うのはコレしかないんじゃないかと言う概念もありましたが、凡ゆる諸症状が脊椎からの神経由来である事が治療反応上として分かり、症状の安定度合いや改善速度から鑑みた結果、あくまで凡ゆる症状は縦軸にも横軸にも「脊椎」「脊髄」に起因する事が分かりました。
そうなると何が見えてくるでしょうか。脊椎に負担を掛けぬ姿勢が最も良いと言う理由から「何もしない」のが1番良い事が分かります。一見馬鹿げた表現かもしれませんが、凡ゆる運動や体操、筋肉や筋膜を標榜した治療も全てギャンブル性の高い手段である事も知る事が出来ます。症状も軽微であれば動く事も悪い事ではないかもしれませんが、あくまで症状を抱えている人は可能な限り、今の個のキャパを受容する事が大切であり、団体・集団行動は極めて危険なリスク因子になるものです。

話は反れましたが再発とは何ぞや、という問題に向き合わなければなりません。しかし、それ以前に再発の意味を改めて考える必要があります。これは以前にも書いた話なので重複しますが、例えば高血圧患者が降圧薬を服薬する。薬物にも作用時間が存在しますので、作用時間中は血圧が適正値に落ち着いているが、薬物の作用時間が過ぎたら血圧が上がる。
これは、再発という言葉の意味自体存在しないものです。鎮痛剤にも作用時間が存在します。これも先程の降圧薬の話と同様、鎮痛剤の作用時間中は痛くないけれど、作用時間が過ぎたら痛くなったとします。これも再発という言葉の意味自体存在しません。では一体、治療に向けての再発という意味は何なのかを考える必要があります。
降圧薬の作用時間を過ぎても血圧が落ち着いている、鎮痛剤の作用時間を過ぎても除痛されている。除痛又は症状改善に伴いパフォーマンス性が向上しているという事が非対処療法となります。現実問題、そのような都合の良い事はありませんので、多くの方は一生降圧薬を飲み続けるように言われたり、痛みが作用時間のみでも消えるのであれば、常に薬物が血中に存在するように服薬し続けるという状況であり、それを個人的には治療とは捉えておりませんが、世間一般では「対処療法」と呼称しています。
このように捉えると、「再発」と呼称して良い治療手段は「作用時間を過ぎてでも、尚、症状軽減がある、もしくは作用時間を過ぎても症状の改善又は消失があったにも関わらず、再度、症状が出てきた」という状況に限られてきます。そうすると、治療とは何ぞやというものが見えてきます。この辺りの観点も含めて書けば但し書きが莫大になる為に書きませんが、一般的に針治療の適応疾患に関して書けば、元々の症状自体、自然治癒する可能性があるものです。末梢神経系由来のものであれば。その可能性が重度あれば無加療の場合治らないかもしれず、軽度であれば寝てても治るかもしれず、と言う話です。
脳血管障害を代表に、脳幹由来や内分泌由来等の中枢神経系由来に関しては無加療だったらどうなるかと言う話はもう少しデータが欲しい為に現段階では出来ませんが、あくまで整形領域疾患且つ末梢神経系由来の話であれば、軽度であれば寝てても治ります。それは皆経験した事はあると思います。
その本来持っている自身の自然治癒能力を後押しし、自然治癒に向けての速度を向上させるものが治療と呼称されるものであり、且つ、そのカテゴリ枠で「治療」や「治癒」、「再発」という言葉が用いられ、更に、言葉の意味が価値を生んでくる事になります。非常にまどろっこしい書き方をしましたが、ここで初めて「再発とは?」と考える段階に入る事が出来ると思います。改めて、「作用時間を過ぎても症状が改善している」事が「治療」としての意義を持ち、
「作用時間を過ぎて一旦は症状が消失又は改善したが、時間の経過で症状が再度出てきた」が「再発」であり、「作用時間を過ぎても中長期的に症状が消失している」が「治癒」という言葉を用いるのが適切な用い方であり、「薬効時間のみ症状が改善している」というのは「治療」や「治癒」でもない為に、薬効時間を過ぎて症状が現れた事に対しては「再発」と言う表現は不適切となります。
では、これを踏まえて「心因性」「思春期」「成長期」「更年期」「精神異常」と言う成り立ちを知ると、如何に段階を経て現行医療での治療抵抗性があった事が原因で起きるレッテル貼りである事も分かるのではないでしょうか。そこには再発と言う概念が如何なるものか、そして、現状の自己が抱える病態とはどのような理由で成立し、どのような理由で再燃するか、そしてどのような治療が対処療法で根治療法かを患者ベースで見極めなければ、簡単にこのようなレッテルが貼られて薬漬けになります。
仮にも現在疼痛性・非疼痛性症状を抱え、これらの表現をされたとしても、上述した内容を知っていれば、その事に対して気分を害する必要もないと思いますし症状が混沌としていく事もないでしょう。先日の通り、これらの表現は「分からない」を起因としているものである為、そこに突っ込んでいってもリスクしか背負わない事になるものです。
症状自体は苦痛でもある為、その症状を改善させる手段は何処に起因するものか。その症状改善を見越す部位と言うのを一歩一歩検証していく為には、鎮痛剤や向精神薬等の全身投与が結果的になされる手段では、何時まで経っても「分からない」と「治らない」で歴史は進んでいくものと思います。
参考関連 (クリックでリンク先にジャンプします)

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