藤原航太針灸院

痛み・痺れ・麻痺・自律神経症状の難治例の検証と臨床

「心因性」「思春期」「成長期」「更年期」「精神異常」と言う通説から見る医療


医療・代替医療、保険・保険外治療問わず、症状に悩む患者自身の最終目標と言うのは現症状からの脱却である事には変わりない。幸いにも人間と言うのは自然治癒出来る能力を有しているものでもあるから、わざわざこのような区分けや線引きや表や裏やと言う話を見聞せずとも考えずとも、栄養を摂って寝て治ってしまうのが1番良いのかもしれないが、全員が全員そうはいかないからこのような事を考えざるを得ない部分と言うのもある。
世の中には世間で勝手に区分けや線引きされてしまった医療と言う行為を好む、医療と言う行為でなければいけない、医療と言う看板でなければいけない人もいるし、その逆に代替医療を好み、代替医療でなければいけない、代替医療と言う看板でなければいなけない人というのも事実存在する為、これらの状況に対して別にこちらが口を挟む隙はないかもしれないが、現状を見る限りは、明らかに薬を飲んで手術をして良くならない、又は術後数年経てから悪化したと言う背景を抱えている人が多い以上、その多くは前者を選択してから後者を選択しているのだろう。
例えば前者後者問わず針で治るとする。針で治ると言う事は、元々の病態は極めて単純な部分に帰結している事も分かる。全細胞は血液により栄養され、血流により維持されている事は幾度となく書いたが、その栄養阻害部位が何処であるかで症状が異なるだけと言う話である。それを細分化させたのが現行医療であり、2次的3次的4次的5次的と、幾段階も踏んだ先の状態に対して、それぞれの傷病名が存在し、そして病態定義と言うのが為されているだけと言うのを知る事が出来る。
そのように逆の視点から考えると、案外代替医療を好まない人間であったとし、どうしても現行医療で何とかしたいとなった場合でも同様な作用を持ち、治る手段と言うのは探せば存在する。このように、代替医療が捉えている作用と現行医療が持つ作用、その狭間で交点を結びつける為に、言語と手段を共通化させる作業と言うのも必要ではないかと思って既に取り組んでいるのだが、予想以上に困難である事が分かる。事情や背景、理屈を知っていれば「治療上」と言う部分では然程困難さはないのかもしれないが、様々な制約が治癒までの邪魔をする。
後述するが、「心因性」「思春期」「成長期」「更年期」「精神異常」等々の冠付は元々「原因不明」のまま培ってしまった背景がある以上、「分からない」からが前提となる。その為、場合によっては保険適応外とせざるを得ない可能性(この可能性は低いと思う。カルテを改ざんすれば良いだけである)、適応症として存在しない、又は既知していない為、そもそも処置されない可能性、実績がない為に言われた術者もホントに良くなるかが予測が付かない可能性、治す事で誰かに泥を塗ってしまう可能性、
度重なる積極的治療は保険請求が下りない可能性、そして1人辺りの単価の問題もある。小さなクリニックでも1時間辺り3万は売上を出さなければ経営が難しいと言う現実も踏まえて考えれば、やはり現行医療ではこれらの諸症状に積極的に対峙し、早期回復を見越すと言う部分はは難しい側面が多くある。それらの理由もあり、簡単に拡散が可能となる経口投与の薬物治療が蔓延していると言う背景もあるかもしれない。
その事を考えれば、代替医療の現場は1人辺りの単価、1時間辺りの単価がドレだけ安いかと言うのも分かると思うし、これを真似しろと現行医療に頭を下げても、訳の分からない症状に対して実績もないのに更に請求が下りないかもしれず、確実に完全赤字で治療をするマゾは探しても中々見当たるものではない。その為、「出来ない」と言う側面も多く、案外交点を結べる同一作用を持つ手段も現行医療は持っているのだが、様々な要因にて出来ない。知り合いでもいれば別かもしれないが、一般的には「出来ない」。「出来ない」と言うのは「無い」に等しい。
其の辺も踏まえて考えれば、保険外治療の自由度の高さと言うのも分かると思うし、保険外治療の値段設定が逆に極めて安いと言う意味も分かるかもしれない。且つ、医療機関ではどうしても薬液を用いる必要性が生じる為、ショックや中毒等のリスク、合併症や医療過誤的な現象も純粋な針治療よりはあるかもしれない。個人的には薬液を用いたほうが作用は強い気がするが、様々なリスクも考慮した上でトータル的な評価をすれば、些か累積治療を要する諸症状群に対しての治療手段としては軍配は上げづらい。更に、薬で具合が悪くなった人が、又薬と言うモノを使って治療すると言う事に対しても心理的な抵抗と言うのは生まれているのも事実散見される。
生まれてしまうが、「具合が悪い」「でも医療と言う看板を掲げている所で治したい」、と言う選択肢しか持てない場合はそのようになってしまうのも現実である。このように、選択肢を狭めてしまう事で生じる弊害と言うのもゼロではない。選択肢が狭まると治癒への可能性も狭まるものかもしれないが、こればかりは患者の思考に委ねるしかない。
ただ、針治療を通して見てきた中で言える事は、現行医療の治療手段であったとしても制度さえ取り外す事が出来れば、相当数の凡ゆる症状を持つ患者が救われると言う事も見えてくる。然し又、罹患層としては厚い、日常生活から幾らでも惹起される可能性のある諸症状と言う程、制約が厳しい故に、取り敢えず生きていればOK程度の抑圧的な制約となる。
皆で持ち寄ったお金で運用している制度なのだから、その運用の仕方に関しては個々で評価するのが1番良いのかもしれないが、罹患層が厚いと言うのは経済を回す、生産性を上げる層も厚いと言う事であり、この層が罹患する諸症状の保険制度が1番抑圧されている現状に関しては、保険を基本的に取り扱わない私自身も少し疑問に思っている。とは言え、湿布と鎮痛剤と向精神薬を大量にばら撒くのが治療と言う意味ではなく、先の論拠を充てがえば一層の回復者が出ると言う事である。

心因性」「思春期」「成長期」「更年期」「精神異常」や「原因不明」と言うのは普通は手を出せない病態である事の意味は分かるだろうか。その答えは先述した通り「分からないから」なのである。分からないから様々な治療を通しても抵抗性を示す場合、最後は鎮痛剤や向精神薬に帰結する。勿論、最初から鎮痛剤や向精神薬が出される場合もある。治療というのは「やってみなければ分からない」と言う側面がある事は大いに理解出来るが、これらの薬物治療はいきなり非常にリスキーな道を歩む事になるものだが、先の通り罹患層が厚い故に悪い意味でこれらの薬物治療もカジュアルになってしまったのではないかと思う。更に、向精神薬は何にでも効く夢のような薬である事も以前書いた。
1988年、リリーがプロザックを発売した時、その前世代よりも副作用が軽微であるとされ、そして服薬する事で生じる効能がまるで何にでも効く為、「奇跡の薬」「ハッピードラッグ」「ワンダードラッグ」と称されて全世界に広まった。このようなSSRIは後に日本でも1999年に「うつは心の風邪」と称したキャンペーンによりパキシルが登場し、更に広まった。
確かに古い世代の向精神薬と比較したら副作用としての部分は年代を増すごとに軽微になってきている。しかし、大切な事は、その凡ゆる症状に「効いた感じ」になる事が、根本的な病態と対峙出来ているかを当時から教育されていなかった側面もあり、ネズミと死体で研究した仮説が本説かの如く振舞われたその後、様々な有害作用が取り沙汰されるようになり、30億ドル以上の和解金をGSKが支払った記憶は新しい。
向精神薬全般含めて有害性や危険性が表面化し、ようやく病態に対しての理解と、薬物と病態との意味や意義への関心が広まりつつあるかもしれない。過去を知らなければ今も知れないかもしれないが、患者は「今のアクシデント」に対して「今から見る」訳だから、このような話をしても意味が分からないかもしれないし、残念ながら、現実として実体験しない以上、外野の声と言うのは届きにくい。
そのように、「分からない」症状だから「向精神薬」と言う段取りを無くす為には、「分からない」を「分かる」にしなければ、患者は無駄に向精神薬の服薬へ走り、最後は向精神薬由来の諸症状(副作用・常用量離脱症状離脱症状)で苦しむ事になる。これを未然に防ぐ為にも、そして向精神薬被害の拡大を最小限に留める為にも、種々病態の「分からない」を「分かる」にしなければならない。その定義付けを私は臨床を通して構築している事は過去の投稿内容でも述べてきた。
幾つか述べてきたのだが、これも一重に治療反応性から病態を模索すると言う手探り感は否めない為、なかなか拡散可能な実績には繋がり難い部分もあり、その結果、治った本人以外は信用しないと言う問題もある。これが臨床面の弱点ではあるのだが、このようなスポット的な蓄積もいつかは力になると思うし、幸いにもデータも溜まれば文字に起こしやすくもなる。
しかし、実績にも繋がらず誰にも信用されず、その割に積極的に治療すると言うスタンスで実際に治ると、その事で誰かのプライドが傷つき、反感を買い、そして対立が起きる。何故なら世間一般では「分からない」と言う事が病態の定義となっており、鎮痛剤や向精神薬を飲む事が推奨されているからだ。そして偶然だ何だと言われ、そのような権威や肩書きに靡く人間が、形振り構わず治りたい人間の足を引っ張る。これでは治る可能性のある人間まで本当に治らなくなってしまう。
例えば、軽症例の整形領域疾患の場合、良いか悪いかは扠措き鎮痛剤で抑え込める場合もある。鎮痛剤で抑え込んでいる内に安静にする事が出来ていれば、その症状は強大化する事なく鎮静出来るかもしれない。ウチにはモルヒネでもダメな人もいるけど、そのような例は極一部だと思う。
「原因不明」と言われるその多くは「自律神経症状」となり、その症状が幾つも同時に現れる。凡ゆる症状が星の数程出ては消えを繰り返す場合もある為、手がつけられない、若しくは1つ1つの症状に対して1つ1つの薬を出していたらいつの間にか手の平から溢れる程の薬になる。そして凡ゆる薬物治療も奏功し難く、且つ整形領域疾患とは異なり、姿勢の変化や行動を抑制する事では改善し難い自律神経は四六時中付き纏う症状でもある為、代替医療に足を運ぶ群と言うのは原因不明と言われた自律神経症状を抱える群が多いのではないかと思う。
そのようにして代替医療の現場は古くから自律神経症状に長けている分野でもあるので、幾つも症状を羅列されていても、案外根本的な由来が何処であるかは治療反応性から分かりやすい。それが自然発症性なのか薬剤性なのかetc…。とは言え、ノーマンズランドに間接的にもアプローチ出来る頚神経叢は浅層を走行している為、浅層故に術者によっては逆に壊したり、浅層故にセルフケアで壊したりするケースと言うのもあるかもしれないが、これらのリスクさえ熟知している場合、世間一般の「原因不明」には極めて強くなれる事を知る。以前も僅かに触れたが、このように中枢神経系へアタックする為の頚神経叢は本当に浅層を走行している為、無闇矢鱈に強く揉んだり低周波を当てる事で案外簡単に壊れる。
改めて書くと「原因不明」と言うのは「原因不明」なのではなく、そもそもの病態概念が現行医療に存在しない為、治療概念や治療実績がなく「分からない」と言うだけに過ぎず、医療で篩に掛けられた患者群を代替医療が治療をし、脈々と根を伸ばしてきただけに過ぎない。その為、「医療で治せないのに代替医療で治った」と言う表現を時折聞くが、少しこれも異なるのではないかと考えている。そもそも扱っているのは有限の身体内部で生じている事実に対してアプローチしているに過ぎないのだから医療も代替医療も関係ない。

心因性」と言う単語に対しては個々で見解は異なると思うが、私自身の見解を幾つか述べようと思う。「心因性」と言うのは「あなたは坐骨神経痛です」と表現するのと同様、極めて曖昧且つ定義の存在しない表現方法であると思う。このように定義が曖昧な表現と言うのは山程あるかもしれないが、その代表的な表現と言うのが過去からも書いている「心因性」「思春期」「成長期」「更年期」「精神異常」辺りになってくる。
「年だから」と言うのも含めたかったが、「年だから=高齢だから」と言うのは広義の解釈をすれば外れてはいない部分もある。人間と言うのは常に一方通行の生き物である。経時経年で変形した脊椎も各関節も萎縮する脳細胞と言うのも逃げられない病である。勿論、その病に対抗する為、セメントを補充したり固定したり、骨切りしたり、骨を回転させてみたりと色々あるかもしれないが、基本的に人間と言うのは生まれてから一方通行で老いと言う避けられぬ病に向かう為、今件では触れないでおく。
あくまで今回は年代別で発症する原因が不明、若しくは曖昧な表現、曖昧な定義に対して触れたいと思う。例えば「心因性」と言う表現は、性差年代病歴関係なく付けられる。思春期も更年期も年齢がたまたまその辺りでそのような症状だから付けられる。成長痛は最近では心因性の概念に非常に近付いてしまっている。それは何故だろうか。薬物治療の反応性が悪い場合、心因性とするしかない側面があり、心因性とすると何でもアリがアリに出来てしまうからだ。
世間的には通用し易い言葉でもある為、患者に対しての表現の1つとして、そして患者の知識ラインと合わせる為に流用するのはアリだと思うが、臨床ベースで「心因性」や「坐骨神経痛」と言う表現に関しては、具体性も各論性もない進展性ゼロのものであると思う。
その為、私は「心因性」「思春期」「成長期」「更年期」「精神異常」と言うような具体性及び臨床ベースでの各論性がない表現と言うのは好まない。このような表現をすると既に何でもアリで、且つお手上げであると言う意味となり、結果的には現行医療と同様、向精神薬を投与してしまうような概念に近付いてしまうだけであり、何でもアリ故に患者と患者の抱える症状を置いてけぼりにしかねないスタンスになるからだ。
しかし、残念ながら今の大きめな何とか学会は「諸検査をしても異常がない諸症状」を定義として向精神薬の投与がされている。このような「諸検査をしても異常がない症状」、だから向精神薬、と言う段取りに危機感を覚える事はないだろうか。この段階に危機感を覚える為にも向精神薬の意味や精神医療の歴史を踏まえなければならないかもしれないが。
例えば「痛い」と言う状態は世間一般にネガティブな状態の事を指し、時に「不思議だ」「原因不明だ」「いやいや、痛いのは〇〇かもしれない」と言われるかもしれないが、その逆に「痛くない」と言うポジティブな状態と言うのは「不思議だ」「原因不明だ」「いやいや、痛くないのは〇〇かもしれない」と考えた事は少ないと思う。しかし私は「痛くない」と言う状態も不思議だと考える。
痛みを知っているから痛くない時の幸福と言うのを知る事も出来るのかもしれないが、このような端的な表現を幸福として捉え、欲求に対してのゼロか100かの極論的思考による穴埋めにより「治る」と言う概念が成立していると捉えるのであれば、それは「治る」と言う状態とは又異なる立ち位置にいると言う事も知らなければならないかもしれない。
その症状は「患者自身しか持っていない唯一の状態」である事と考えれば、主に日常生活で発生するありと凡ゆる症状と言うのは、患者を通して手探りで学び共に獲得していくものだと常々思う。これが経験則と言う表現になるかもしれないが、治療を行った上で初めて言える事、初めて考えられる事と言うのは非常に多い部分が実はある。
そして残念ながら、このような「治療⇒良くなった⇒ではここが悪いと言う事で診断します」と言う逆順序を辿る治療が蔓延する事が説得力や信頼性の希薄化が生じる部分かもしれない。これが臨床の弱点である。これは案外全ての医療・代替医療で見られるもので「では、この薬を飲んでみましょう」「この手術をしてみましょう」「ここに注射してみましょう」「ここを揉んでみましょう」「ここに針を刺してみましょう」により、ある程度の把握の下で治療は進行するものかもしれないが、それで絶対に良くなる保証がないのが臨床ベースの不安定性だと思う。
それは何とか無くしたい。そのような不確定要素や不安定要素を削り、再現性と確実性を高めるには「心因性」と言う何でもアリな表現を術者が出来る訳がない。

基本的に私は保険を取り扱わない為に下記の心配や苦労はないのだが、症状回復を見込み、様々なタブーを裏に抱えている事例と言うのは案外少なくないと思う。こんな事を兎や角言うのは野暮な事だから普通は言わないと思うが、カルテを改ざんしてでも保険を通し、そして自身が犠牲となってまでも患者の回復に努める人もいる。積極的治療を行うにあたり、保険請求が通らないからと症状詳記を一人一人わざわざ書いている人もいる。
様々な治療には様々な制約により、制限が設けられている。その大きな障壁が保険制度となり、皆でお金を寄せ集めて運用している制度である以上、その管轄元はどうしても制限せざるを得ない側面と言うのは事実あり、その事で治る可能性も閉ざされているケースと言うのは散見する。勿論、この治療と言う部分に於いても、対処療法なのか根治療法なのか、そして嗜好品の如く向精神薬を必要とする患者の為なのか、使い方はバラバラかもしれないし、その患者ニーズに沿った適用をするのは又バラバラかもしれないので一概には言えない部分はあるが、
そのように真摯に向き合い、自己を犠牲にしてでも患者と向き合っている人もいれば、自身の利益追求の為だけにカルテを改ざんし、水増し請求や部位転がし等の不正請求を行っている所も沢山ある。関西方面が特に酷いようだが、これは単純に審査する側の問題も含まれてくる為、何処の地域とて行われている事だろう。
自賠責や労災を良い事に患者負担が無いからと限界迄通わせる所も多い。治すとか治さないとかは2の次である。現在の処方量が超えれば身入りが少なくなるからと他科に回す人もいる。その系列の他科で更に上限に達すれば、更に他科に回す。そして患者は気付いたら薬漬けとなっていたと言うケースは多いだろう。このように、これらは運用上の隙間を縫っているものであり、患者にとってはメリットとなる縫い合わせか、自己の利益追求の為に患者にとってはデメリットとなる縫い合わせかは、案外「今現在」症状に苦しんでいる渦中の人は気づけないものである。そもそも、運用上の制度なんて普通は知らないものだからだ。
そして、法的に逸脱した行為を行っている人間もいる。免許によって法的範囲は異なる。出来る事も異なる。その中で最大限の力を発揮して患者と対峙する事になるのだが、時には内外共に許容できない程に逸脱した法外な行為を行っている情報と言うのも実は多く入ってくる。物事には必ずタブーやダブルスタンダードは存在するものだが、個人的にはそのような行為は嫌いである。好まない。これは別に業界の為でもないし、同業界の内外や周囲の人間の為にでもない。患者に対して失礼な行為である。何のために開業しているのだろうか。限界まで患者の症状と対峙する為、そして全責任を負う覚悟で常にいる為なのではないのだろうか。
保険・保険外治療問わず、患者が求めているのは回復だと思う。
しかし、その回復に随伴する治療と言うのは常に不安定性と不確定要素が伴う確率論で推移するもので、絶対論と言うのは存在しない。それでも尚、極めて再現性と確実性と安全性を高め、確率論を高め、早期回復させるかが1つのキーとなるのだが、どれだけ頑張っても治らない症状と言うのは残念ながらあるものだ。
勿論、場数と年月も踏めば、見立ての精度も治療の精度も上がってくる為に治癒率と言うのも年々向上しているかもしれないが、仮にそうだとうしても、来なければ進まない、受療せぬ限り進まないという人間相手のものである為、全てが全てとは言えない事も多い。そして、重症度も比例して上がってくる為、治癒率と言うのも抑制されるかもしれない。色々と一概には言えない難しい側面もある。
1~2回で治るような症例ばかりでない事は症例を見ても分かると思う。発症時期、症状の内容、既往歴、服薬歴等々全て異なる中で、全ての症例を1~2回で治ると言い切れるのは流石に無理な話であり、術者と立場側となる人間が言うのも問題があるかもしれないが、それは受けられない高度な要求である。それでも尚、1回でも1日でも早く回復出来るように試行錯誤しているのは事実である。かと言って、1~2年頑張って治療を受けても、そして限りなく患者に悪化因子を排除した生活を送ってもらっても治らないケースと言うのもある。その反面、1~2年頑張って治ったと言うケースも幾つかある。
ある程度の軽症例の場合、症状発症の起因を同様に取り込みながら治療が継続する為に、症状の回復と憎悪と言うのは天秤に掛けられ易い場合もある。中には身体を壊す事を趣味とする人も居れば、身体を壊さざるを得ず毎日を送っている人もいる。自然発症性の諸症状程、そして軽症例の症状であればある程、症状とは「術者の理想論と患者の症状」で時間が流れているのではなく、「自身の症状と自身の人生」の中で天秤に掛けられ動いているものである為、そこに幾ら術者が理想論を唱えても届かない時もある。
だから私は「絶対」治ると言う言葉は使わないし使えない。あくまで確率論、推測論の域を脱する事が出来ないのは、医療・代替医療以外の何処の業界でも同じ事は言えると思う。それでも何故か、この業界は不思議な事に絶対論を掲げる所は多い。それが何故かは分からない。あくまでこれも推測だが、窮地に追いやられている人間に対して「絶対治る」と言えば、そりゃ患者にとっては目の前の術者が神様に見えるだろう。
このように、患者にとっては「絶対治るよ」と言われたら嬉しいかもしれないし、患者間で「治るよ」と言い合うのは別に構わないと思うが、それは術者が言える言葉でもないと思っている。それが幾ら軽微且つ単純な肩こりや腰痛1つとってもである。どう見ても数日寝てれば治るんじゃないか、と思う症状に対してでも、あくまで症状改善の遅延性や突発的なアクシデント等の可能性も含めて考えれば「絶対治る」と言う発言は患者への詐欺活動みたいなものであり、失礼にあたる事だと思う。
絶対論を求める患者が「このような不確定な話しかしない術者は治せないのではないか」と不信に思ってもらうのは自由だと思う。縁がなかったと言えばそれまでであるからだ。そのような思考を持つ患者は絶対論を提唱する所に行くしかないと思う。恐らく私には到底無理な話だ。時折述べるが、症状の回復を求める場合、治療以前の問題として様々な障壁を患者個人で乗り越える必要性があるからだ。
人の命までは救えないかもしれないが、治らぬ症状を長年抱え、その症状が回復したら、もしかしたら、その症状で自殺まで考えていた人間の人生は変われるかもしれない。そのように考えると、治療以前の問題とし、せめて人間の身体を扱う業界に於いては事実ベースで患者と接する必要はあると思う。

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