藤原航太針灸院

痛み・痺れ・麻痺・自律神経症状の難治例の検証と臨床

異痛症と基礎医学と臨床医学の隔たり


「何でこうなった(痛く)んですか?」と聞くも「分かりません」と言う答えは相応にしてあるのだが、「分かりません」と言う返答を責める事は出来ない。それほど、痛みの発生起因と言うのは複雑であり、知ろうと思えば思うほど、分からなくなるような謎めいた産物であるからだ。
「痛み」なんて誰も分からないのだし、術者だって何で「痛み」が出るのか分からない。それならば、聞くだけ意味のないようにも思うが、一応は重篤疾患とて潜んでいる場合もあるし、服薬内容によっては重篤疾患に伴う症状すらフィルターを掛けられているケースもゼロではない事から、慎重性は高めておく事に損はない。
気を遣って「使い過ぎた」とか「負担を掛け過ぎた」と答えてくれる方もいるかもしれないが、それも、明確な受傷機序、起因となる理由でもないし、紐解きとなる理由にもならない事は、異痛症と言う存在や、患者が過去に酷使してきたと推測される部位を思い出しての患者自身の自己背景から表現されるだけのものかもしれない。かと言って、それを更に追求したところで、やはり「痛み」なんて誰にも分からない世界である事にも変わらない。
例えば、小関節の症状とて同様である。ばね指、TFCC、ドケルバン、腱鞘炎、手根管症候群、突き指等から長期化した痛み等々の症状群に対しての長期化した症状他、若しくは患者自覚としての「痛み」と言う症状が含まれた症状全てに言える事かもしれないが、何故「痛い」のかを考える必要性はあるのかもしれない。そして、本当にそれらが症状の由来であるのも考えなければならない。多くの患者は過去の医療機関で、ある程度の診断名を告げられてくるのだが、それが本当か否かすら私は信用していないのである。それは何故かと言えば簡単である。仮にも、その医療機関で良くなっているのであれば、ここにはいない訳なのだから。
時として針屋は「痺れ」や「感覚鈍麻」、「脱力」や「筋減少」と言う、やや症状が進行したかに思えるような症状に対して目が行きがちな部分はあるが、何故「痛い」のか、そして、何故「痛み」が伴うのか。「痛み」が伴っている場合、過去に診断を告げられた診断名と合致させて良いものなのか。そして、そもそも「その部位」が何故「痛む」のか。それは他動運動では痛まないのに、何故、自動運動では痛むのか。更に言えば、何故抗重力下では痛むのに、重力を分散する姿勢を取れば緩和自覚が得られるのか。
「痛む」と言う症状「のみ」の場合、患者と言うのは医療機関で随分と軽視されているようだ。それが「痺れ」や「感覚鈍麻」、「脱力」や「筋減少」に発展した場合、匙を投げられる傾向であるのは、もっと残念な事でもあるが…。さて、「痛み」とは何だろうか。勿論、散々先人のお偉方は研究に研究を重ねて、解明されている節もあるかもしれない。
しかしながら、それは基礎医学的段階のものであり、臨床医学、要は「治していく」と言うスタンスと視点を持って対応しようとする場合、基礎医学臨床医学では大きな隔たりと憤りを感じる事になる。発生部位(罹患部位)に「痛み」を生じる機構は存在しないが、患者は「痛い」と言う。しかしながら、医学書と当てはめれば「痛い」と書いているし、自動運動で罹患部位が「痛み」、発症エリアも相応の傷病と合致する。
かと言って、それは診断上、当てはめただけの問題であり、その診断上に於いて、診断名に沿った治療を行っても全くの梨の礫でしかないのは患者が一番知っているのかもしれない。そのような中長期的に渡り憎悪傾向であり、遷延化が示唆された症状群に対して、今では中枢性感作と称し、向精神薬の処方が散見されるが、仮にも「向精神薬の処方⇒症状改善⇒中枢性感作」と言う、短絡的な段階を経ての考察では宜しくないものである。
そもそも、向精神薬のような脳に効かせる薬は何にでも効く夢のような薬なのだから、「症状は夢物語だった」と片付ける訳にもいかない。
非常に回りくどい書き方をしているが、末梢神経系、皮膚表在の圧痛部位、ポリモーダル感作、これらに対し刺激を与えれば痛い。強い指圧をすれば痛いと思うし、角にぶつけても痛い。それは実に当たり前の事なのかもしれない。それは患者にとっての危険信号であるからなのだが、「痛み」「痛み続ける」症状で、且つ「安静時」「動作時」でも明瞭な寛解や憎悪を示す、患者の身体内部から発生させる「痛み」を司っているのは何処なのか、と言う問題にもなる。
指先の外傷→侵害受容器が感知→末梢神経→脊髄→脳、であり、疼痛自覚及び憎悪傾向→交感神経反射による慢性化と言う見方でも構わないのだが、問題なのは、何処を処置する事で痛みを回復させるかが大切な部分である事には変わらない。受傷起因が明確なものであれ、異痛症は相当数含まれているし、それに伴う誤診と言うのも多い。
誤診であれば治療部位が全く異なる為、全く症状は動かない。強いて言えば、薬でも飲み、仮にも疼痛自覚が緩和されれば、指でも手首でも肘でも首でも何処かに効いているのだろうから、誤診だったのかどうかも分からないまま、闇に葬られる症例と言うのも数限りなくあるだろう。
但し、多くの症状は急性期を通り過ぎた蔓延化したものであり、急性期と同様の薬物とはマッチングしない状態になっている。その時に初めて、誤診だったと気付く場合もあるかもしれないし、「診断は正しい」と言う自己のプライドが邪魔をして、結局は患者の精神症状に問題があると責任を押し付けてしまうケースも少なくない。
得てして、薬物治療の多くは「治る」と言う根本的定義を持ち合わせていない姑息的手段なのだから仕方ない側面はあるのかもしれないが、その仕方ないと言う言葉に振り回されてしまうのは患者である事にも変わらない。
「痛い」と言うのは極めて深刻な危険信号であり、患者も冷静ではいられない。冷静でいられないと言う事は、患者表現も冷静でなくなる。その冷静さを失った患者表現に振り回された場合、誤診が起き、且つ、仮にも合致した診断が成立したとしても治療内容が既にマッチングしない時期ともなれば、治療効果も極めて薄い。極めて薄ければ症状は伸び伸びと抱え続ける事になり、患者の精神も疲弊する事になる。
そのような負のスパイラルが招かれる事は決して良くないのだが、現状の「痛み」に対しての医療と言うものは、未だその段階でしかないと言う証拠でもあるのだろう。見方を変えれば、日常生活を起因とする諸症状に関しては、医療機関は軽視する傾向にあるのは古くから言われている事であり、それらの諸症状に対しては代替医療と言われる手段が穴埋めをしてきた。しかし、よくよく考えれば大半の症状惹起となる起因は日常生活である事には変わらない。それがありと凡ゆる〇〇病でも変わらない。
そこを具に観察していけば、ありと凡ゆる症状は、〇〇病と言うような大上段に構えた名前を付ける意義さえ感じられず、発症する事が当たり前と言う見方も併せ持てば、回復に至らせる道程も見えてくるものだ。
そのように考察すれば、「薬も含め、飲み食いが絡んで全身配布され⇒症状が改善」と言う図式自体が、そもそもの「診断⇒治療⇒治癒」と言う成立機序も随分と漠然と見えてこなくもない。選択的に責任部位に対して治療行為を求められない治療手段は、仮にも原因部位が何処であろうと関係なくなる為である。
故に、冷えでも腰痛でも肩凝りでも何でも、「治ったから、それで良い」と言う短絡的な見方をするのはデータとして構築出来ない側面もある事から、個人的には好きではない手段でもある。勿論、薬は飲まないに越した事はないかもしれないし、ポテトチップスとコーラを飲み食いする事を推奨している訳ではないのだが、全身配布に伴う治療手段の場合、「臨床」と言う側面で見た場合、先ほども書いた通り、仮に診断が正しかろうと誤診だろうと全て抹消されてしまう為、次が見えてこない、次に活かせないのである。
その為に、「効く人もいれば効かない人もいる」と言う逃げ腰にもなりがちにもなるし、「100人100様」と言う言葉も出てくる。仮にも有効率が9割だとして、「この治療手段と見立てでは9割の有効率があります」とする。9割の患者に対して有効である治療手段と言うのは、極めて高い有効率に見えるかもしれないが、残りの1割はこぼれ落ちている事実もあり、そちらを軽視して9割の患者の喜びを間に受ける訳にもいかない。

位置覚感知の際に微細な体動すらも極めて甚大な刺激に自覚し、それが自動他動問わず、気温や気圧、水温や音量すらも過敏に反応を示す事を一般的には異痛症と呼称され、謎めいた異痛症の概念は、時として心因性としてゴミ箱に捨てられる運命にあるものだが、さて、これらの捨てられたゴミを拾い上げる事こそが大切である。
これらの存在は、恐らく中長期的に症状を抱えた群であれば多くの患者が抱えているケースである。もっと簡単に書けば神経過敏と言う表現でも良いかもしれない。時として腫れ物に触るような恐怖感を術者側に教えてくれるものだが、受傷起因も明瞭ではないニューラプラキシア等の類とも異なるものであるし、結果的に表在化した押圧痛含め、外的刺激に極めて過敏となった状態と言うのは、時として患者の行動を抑制してしまう。
多くの整形領域的疾患は医療機関で診断が告げる事が出来るが、診断が治癒へと直結する事は無い。それは画像所見上での診断のみの価値でしかない場合もあるし、症状を見た上での診断のみの場合もある。押圧して痛かったからの場合もある。選択的に薬物治療等で治療を講じて、反応性が乏しかったから故の消去法的な診断である場合もある。しかし、診断が直接的な治癒に結び付くケースは残念ながら少なく、多くの患者は大なり小なり、もっと複雑な痛みの機序を抱えていると考えても不思議ではない。
それが一重に異痛症と言う概念であり、微細刺激の過敏反応であり、世間一般で言う中枢性感作であり、そのワードを知らなければ、単に精神疾患か年寄りか思春期か更年期としか言われないものである。
さて、これらの症状に対して薬物治療のような全身に波及してしまう作用を持つ治療手段が現在の一般的な治療手段であるのかもしれないが、先にも書いた通り、全身に波及する作用を持つ治療手段は、誤診も誤認も全てフィルタリングされてしまうデメリットがあり、更なる選択的治療手段を望んでいかないと、凡ゆる症状は心因性としてゴミ箱に捨てられる運命にある。
多くの謎めいた病態と対峙しようと、年々キレのある薬物は開発されているかもしれないが、薬物治療の発展は、患者の疼痛機序の解明を潰す行為でもあるような気がしてならない側面もある。
故に、選択的に治療を講じる事が可能であり、仮にもそれが無効であれ有効であれ試行していける手段と言うものが代替医療に多く存在するとも考えているし、ブロック注射等の手段もそうなのかもしれない。しかしながら現在の制度では極めて積極的な治療手段は保険制度が許してくれないようであり、保険制度の垣根を超えてブロックを果敢に行ってくれる機関は数少ないかもしれないし、仮にも侵襲性も高く、麻酔薬を毎度毎度打ち込む随伴的合併症も踏まえて考察すれば、些かリスキーな面もある。
だから、針治療のように、そもそもの垣根が存在しない(在るのかもしれないが)治療手段と言うものが、一層優位に立てる存在でもあるし、よくよく症状を伺えば、年寄りのような全脊椎高位に極めて不安定性を持つ患者や、向精神薬由来に伴う体幹硬直を持つ患者、多根性の神経障害を持つ患者、更にそれらの神経系への栄養供給の安定化を求む治療手段など、手が掛かり過ぎて、一般の医療機関では出来る事ではない。
出来る事ではないかもしれないが、やらなければならない事でもある。出来ないと言うのは「ない」のである。出来るのであればやるしかない。その事で回復が得られたのであれば、それが新しい病態定義の解明に道を進める第一歩になる。

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  ~針治療から病態定義の見直しを~