藤原航太針灸院

痛み・痺れ・麻痺・自律神経症状の難治例の検証と臨床

昨今の内外で起きている事に対しての所感


負の推論を講じても発展させても自身にとってはマイナスを曝け出すに過ぎないのかもしれないが、「因果関係を結び付けない」と言う例外患者を放棄する思考は患者にとってもマイナスにしかならない。
多くは統計的要素が絡んで承認され、世間一般に拡まる事になるのかもしれないが、仮にもそれが有効率90%の治療手段があったとしても、
残りの10%の患者にとっては無効治療だった場合、無効患者の存在を無かった事にしなければ評価と言うのは上げられない。
要は表に出さなければ分からない、即ち、人目に付かぬ事なく臨床データを闇に葬れば素晴らしい結果を発表出来る。臨床データは商業に直結する為、何処の業界でも当たり前のように行われている。さて、そのような態度では治療に発展もない。
「治る患者ばかり集めて治しました」ではどうしようもない。
10%の無効患者の存在を蔑ろにした不誠実な対応の積み重ねは、いずれ必ずしっぺ返しが来るかもしれない。例外を捨てる行為は決して許されるべきではないし、例外があるなら有効層90%の患者すらも無効手段だったのではないかと言う姿勢でありたい。

「薬が効かない」と頻繁に言われ、肩身の狭い想いをしている人達は沢山いる。このような事例は私以上にフロントで対峙する人達のほうが余程知っていると思うし、問い詰められ、そして時に肝を冷やす想い迄している人達と言うのも少なくないものだ。
その点、私のような立場なんか楽なものである。効かないと言う情報すら財産となるし、それだけで相応な大きな精査材料にもなり、治療にフィードバック出来るからである。後医が名医となるつもりもサラサラないが、その大体の患者がファーストチョイスで来ないのだから、結果的にネガティブな情報も膨れ上がっていくだけなのだ。
さて、精神科や向精神薬はそのような傷付けられたプライドの人間の傷を埋める為にも存在する。プライドの高い人間程、自身が傷付けられる事、傷付く事を恐れ、手に負えない症状を持つ患者、治療反応性の悪い患者には精神科を推し、向精神薬を推している。
個の患者にしてみれば、風邪や擦り傷とは異なる未知の症状に冷静さを失い、その結果、第三者にコンサルトするものかもしれないが、その大体はコンサルトされた側も未知との遭遇である。未知を知る為に、検査機器は発展し、見えないものを見ようとしているが、それが見えた所で結果に反映されるかと言えば、それはまた別な話である。
多くは定義が不安定且つ覚束無い年々変動するような病名であり、改訂ごとに多数決で決めて増えていくような病名でありと、探せば何か当て嵌るものはある。しかし、何か探して当て嵌ったからとしても、隣近所の病名と同様、治療手段は向精神薬が延長線上に存在するか、初期から処方されるか、早いか遅いかだけに過ぎない。
未知との遭遇だからと向精神薬が肯定されても良い訳はないと思うし、勿論、精神異常者と言うレッテルを貼っても良い訳がない。それもこれも何もかも、自身のプライドを傷付けたくない為である。目に見えないレッテルを貼る事は、自身の傷口を防ぐ為でもある。
見方を変えてみたらどうだろうか。そもそも患者が訴える症状なんて未知である。表現方法は皆異なるものだし、患者自身が元々保有する知識や情報、症状に悩まされてから新規に取り込んだ熟成されていない情報、何処かで植え付けられた情報、その時の体調や気分、根幹の性格等で症状の表現など簡単に変動するものだ。
まだ幸いにも薬を飲んでいない人は沢山いる。それでも、飲んではいないが服薬を家族や医者に促されている人もいる。何故飲むのかを問うても、理由は不明瞭である事が多い。それで楽になるのか、治るのか、中長期的な服薬に伴うリスクとベネフィットは天秤に掛けているのかまで考察する必要性があるのだが、その多くは知らない。
既に薬を飲んでいる人もいる。嗜好品の如く好んで飲んでいる人もいれば、幸いにも副作用は出ていないながらも、飲む事に対して常に疑問を持っている人もいる。
散々薬漬けにされ切った貼ったされてもどうにもならず、追い出されたような人もいる。
皆そのように背景が異なるのだから抱える症状も訴える表現方法も100人100様であり、決まりきった病名に当て嵌める事自体が非常に図々しくも感じる。
無論、保険請求する際には適当に傷病名でも付けなければならないのは重々承知しての事だが、治すにはどうしたら良いかと考えたら傷病名と言う冠は極めて邪魔になる。
軽度な背景であればある程、その冠にオンブや抱っこして世話になっている感じが極めて強く感じるものである。幸いにも社会的な保護もあるからである。
これが切った貼ったを繰り返してもどうにもならず、追い出されたような重度な背景を抱えていれば、患者自身も既に懲り懲りしているものである。そもそも歩く事すらままならなければ社会復帰どころか身の回りの生活すら復帰出来ない。幾ら保護を受けても金を受け取っても治るものでもない。故に、軽症例よりも早期回復する理由がここにある。
このように考えると、「治る」とか「治す」と言うのは、患者がドレだけ本気で取り組んだかにも左右される場合もあるし、自身の先々の目標の有無にも左右されるものかもしれない。
しかしながら、軽症例ほど早期回復するには変わらないと思う。車の凹みだって擦り傷だって浅いほうが早く治るし安く済む。それでも尚、軽症例患者は重症例患者の背景を知らない。重症例患者は過去に軽症例であった事を忘れている。そして、軽症例患者は、まさか今後重症例に移行する可能性がある事も知らない。
その移行プロセスに、向精神薬と言う存在が大いに関係してくる事も知らない。
未だ向精神薬に対してメリットを感じている状態では知る由もないだろうし、危険性や有害性を薄々と感じてはいるものの、興味本位で安易に薬を止めてみたら急激に症状が悪化して(禁断症状なのだが)、再服薬した結果、症状が落ち着いた事に対し、安堵している場合もあるだろう。
そして、その多くはそれ以上の情報を得ず、安易にズルズルと服薬し続ける。その結果が今の惨状であるのかもしれないが、せめて、自身の飲んでいる薬が対処療法なのか根治療法なのかは調べ、自覚し、中長期的な服薬のリスクも知ってほしいとは思うし、
その病名が如何なる背景を持って出来上がったかも知ってほしいとも思う。そうすれば、必要以上に不安に思う、薬を飲み続ける意味もなくなる。そして、この意味も薄々とでも分かってもらえるのではないかと思う。

患者の訴える内容の多くが、結果的に医療の延長線上の状態である事から、現代医療的な最後の受け皿である精神医療や向精神薬の問題に端を発した事象に集約される事になるのだが、凡ゆる諸症状で最終的に(初診時から目一杯出されているケースも少なくないが)精神医療や向精神薬の果たす機能と言うのは、
1+1を2と書いたつもりが間違いだった事を示した初期段階での処置に誤りがあったかもしれないと言う意味でもあり、考えなければならないのは、そもそもの計算式では導き出されない根底的な問題だったかもしれない。そのような受け皿として、向精神薬の機能性と言うのは非常に高いと言う見方も出来る。
さて、そもそも人間と言うのは集団になると必ず上がいて下がいて横が存在する。これは、医療業界問わず、どのコミュニティでも生じるものであるのだが、マルを貰う為にと、1+1を2と書いてお利口さんヅラが出来るのは組織内だけである。この薬を出せば免責される。この手術をすれば免責される。そして治らなかったら精神異常者とすれば良い。
若しくは其処までいかなくとも、検査上異常が無ければ年代別にレッテル貼りをする事が許されており、どの道この道、向精神薬の処方が延長線上にある。
このような流れを組むのが現代医療的考えであり、これに関わる多くの医学学会や保険制度、ガイドライン等の絡みから、医療と言う組織で見た場合でも、自身の身をを守る為には保守的に成らざるを得なく、その中で不利益を被り続けるのは患者でしかない事に気付くものである。
それでも尚、諦めさせる人間の言葉を鵜呑みにして諦めてしまう人間の多さと言ったら、悪い意味でドレだけお利口さんが多いのかと言うのも伺える側面もあるのだが、そのようなシガラミから抜け、症状改善に向けて励む人間と言うのは、将来に見据えた別な目標がある人間なのだろう、と言うのも伺い知る事が出来る。病気を治すのが目標なのではなく、その他の生きる目的を達成する為の目標を置いている人間である。その逆に、辛辣ながら将来の目標を見失った、若しくは目標の存在しない人間と言うのは治さないものである。
これが整形領域疾患であれば、未だ「治さない」と言う手段と思考も、余命僅かな高齢者であれば、今後の生活に於いて耐えられる場合もある。行動範囲が元々室内のみで良ければ、症状として自身が自覚、評価する必要もないかもしれない。仮にも症状が憎悪しても、憎悪した分、行動範囲を更に狭くすれば良いだけである。
しかしながら、自律神経系の諸症状は、行動範囲を狭めても改善はせず、朝から晩まで続く場合が圧倒的に多い。これらの諸症状は、冒頭で書いた医療の延長線上として処方される向精神薬由来の諸症状であると推測されるケースが極めて高く、それが凡ゆる諸症状の受け皿として機能を果たした精神医療、向精神薬と言う存在により、患者自身に謎めいた諸症状を突き付け、そして患者は更に薬を増やしていかれ、最終的には鎮静と言う事態が今も尚続いている。
多分、相当数の患者が薬で殺されている気がするが、多くの現場は組織で動き、必ずポジショントークなるものが存在し、それに気付いた組織内の人間も、自身の身を守る為には言う事も出来ず、ジッと我慢している方々と言うのも少なくない。そしてそれは声を大にして言っても、今現在、渦中の患者も気付かないケースも少なくない。
何故気付けないかと言えば、患者が薬を飲み続ける事で、その行為自体が相手方の保身ともなり安心ともなり余裕を持った診療が出来るからに過ぎず、患者が反発をしてもしなくとも、凡ゆる方向から逃げられる対策があるからであり、結局は患者自身が自己の症状を見詰め直し、知識を持ち、行動を起こさない限りは治らないと言うのが見えてくるものである。

case1  「情報と捉え方」 http://blogs.yahoo.co.jp/anti_white_supremacy/13856029.htmlより
少々気になる事があり、改めて情報が飛んできているので僅かに触れるが、ワクチン接種後の患者群に対し、ワクチン由来と示唆される患者群が過去の受療機関か現受療機関かは扠措き(と言う書き方を現段階ではしておく)、
「ワクチン接種背景有り+(接種後の期間関係無く症状を発した)身体疼痛や自律神経症状」を抱える患者群及び、ワクチン由来との関係問わず向精神薬を服薬している患者群に対し、
「これは○○病(精神病や自律神経失調症等が入る)ではなくワクチン由来だから」と言う事で、向精神薬の一気断薬を行っている傾向があるかもしれない。
これは全ての患者に一気断薬の指示を出しているか否かは定かではないし、仮にも漸減法を用いた場合でも、服薬期間によっては離脱症状を呈する可能性もある事、及び離脱症状の内容、そして向精神薬の性格の理解の説明、及びフォローアップが全ての患者に行われたかも定かではないが、
入ってきている情報群を精査する限りでも、ワクチンに目を取られ、向精神薬の性格迄は頭が回らなかったのかもしれない。仮にもワクチン由来の諸症状が改善されたとしても、向精神薬由来の症状が改善されていなければ、患者にとっては治ったと言う評価が出来る訳もない。
且つ、これらの諸症状は極めて類似性が高い為、判定を下すにあたっても、それがワクチンなのか向精神薬なのかと言う判定は一体誰が出来るのだろうか。それであれば、最終的に凡ゆる諸症状が改善するまで、由来が何であれ、リスクファクターと、そこから派生する凡ゆる誘発症状のバックアップは必ず要しなければならないものではないだろうか。
既に5~6年経過し、現在に至るまでも同医療機関を受診されている方々は恐らく相当数いるかと推定されるが、急性及び遅発性、遷延性を示唆する以下の3パターン及びオーバーラップ型の諸症状に関して、
向精神薬減~断薬後(一気断薬や漸減法含む)に発症しているようであれば、それはワクチン由来ではなく、向精神薬による離脱症候群の可能性も視野に入れなければならない。
A)易興奮性(イライラ、落ち着かない)不眠、悪夢、他の睡眠障害、不安の増大、パニック発作、広場恐怖、社会恐怖、知覚変容、離人感、非現実感、幻覚、錯覚、抑うつ、強迫観念、妄想的思考、激怒、攻撃性、易刺激性、記憶力、集中力の低下、侵入的記憶、渇望(まれ)、頭痛、痛み/筋肉の凝り - (四肢、背中、首、歯、顎)、ピリピリする感覚、痺れ、感覚の変容(四肢、顔、胴体)、脱力(例えば下肢に力が入らない)、疲労感、インフルエンザ様症状、筋肉がピクピクする(筋れん縮)、ミオクローヌス、チック、電気ショック様感覚、震え、めまい、もうろう感、バランス失調、霧視(ぼやけて見える、目がかすむ)、複視(二重に見える)、眼痛、ドライアイ、耳鳴り、過敏性 -(光、音、触覚、味覚、嗅覚)、消化器系症状 -(吐き気、嘔吐、下痢、便秘、腹痛、腹部膨満感、嚥下障害)、食欲/体重の変化、口渇、金属様味覚、嗅覚異常、潮紅/発汗/動悸、過呼吸、排尿障害/月経異常、皮膚発疹、かゆみ
B)腹痛、下痢、吐き気、嘔吐、インフルエンザ様症状、疲労感、頭痛、筋肉痛、脱力、発汗、悪寒、動悸、不眠、鮮明な夢、悪夢、めまい感、頭のふらふら感、回転性めまい、チクチクする感覚、電気ショック様感覚、振戦(ふるえ)、平衡障害、筋硬直、異常運動、不安、激しい興奮、発作的に泣く、易刺激性、過活動、攻撃性、離人症、記憶障害、錯乱、気分低下
C)かぜ様症状、頭痛、無気力、腹部痙攣、腹痛、食欲障害、下痢、吐き気/嘔吐、不眠症、悪夢、運動失調、目まい、立ちくらみ、めまい、ぼやけた視界、電気ショック感覚、痺れ、感覚異常、静座不能パーキンソン症候群、震え、攻撃性/神経過敏、攪拌、不安、気分の落ち込み
接種した患者年齢(年代)及び背景を持ち、且つ上記症状及び自然発症性の身体疼痛や自律神経系症状を抱える患者群に対しては3つの考察が必要でもある。
1)ワクチン接種後に生じた全身性に渡る強い炎症症状から生じた低酸素状態に伴う諸症状(低酸素状態が続けば、各種細胞の柔軟性の維持及び回復が出来ず、3)と類似性の高い症状(状態ではなく)に移行する懸念がある。世間一般で言う線維筋痛症の様な症状に当て嵌る)(※これは今度データ出します。今、何処いったか探しています)
2)向精神薬の急激な断薬に伴う離脱症状(遷延性離脱症候群)(遅発性離脱症候群)
3)成長期による、脊椎の成長に伴う脊髄のテンション過多に伴う神経根及び後根神経節由来の各当該脊椎高位の神経支配領域症状並びに、それに伴う脳幹や視床下部の支配領域症状
恐らく1)~3)が単独で生じている可能性は低く、その多くはオーバーラップ型である事が治療反応上からも示唆されるものであるが、治癒速度及び改善時の安定性等まで鑑みて考察しても、2)の向精神薬絡みの場合、やはり改善速度は遅く、且つ不安定な伸び方をしていくのはワクチン云々関係なく、向精神薬の常用量離脱及び減~断薬時に於ける離脱症状を抱えるワクチン接種を関係としない、且つ凡ゆる年代の向精神薬由来症状の患者群と同様である。

case2 「可能性にチャレンジ」
以前、http://blogs.yahoo.co.jp/anti_white_supr…/13864855.htmlで触れた方。継続的治療の観点、時間と距離等の兼ね合いを天秤に掛け、都内の診療所を紹介して治療を行ってもらう事にしています。
長期間に渡る離脱症状(常用量離脱含む)と思しき諸症状も治療部位が定まれば、然と改善傾向を示してくれるものです。未だ減薬過程であり短期結果での内容の為、両手を上げて喜んでも良い時期ではありませんが、今後も良き方向に向かう事を期待したいと思います。そのご報告を頂きましたので、離脱症状に苦しむ方の励みにもなると思い転載します。
以下転載(一部修正してます)
○○先生の治療を受けさせていただきました。
以前、星状神経節ブロックの経験から多少の恐怖感は有りましたが全然別でした。注射している実感が無いほど何も違和感は有りませんでした。
その後当日は、約8年ぶりに無痛感を味わい久しぶりの幸福感を味わいました。翌日朝、早速痛みが発生しましたが、これがリバウンド?と感じています。減薬中、リボトリールを減らした時の翌日に似たような痛みが有りました。
痛みは、眉間局部の激しい痛みが周囲に分散されていくような感じです。
夜はほとんど無痛です。ただ痛みが取れただけですがこれ以上にない幸福感を味わっています。
今までは何をやっても無変化で絶望感を味わっていました。
これは初めての体験です。
もう一つ、眉間痛以外の効果です。リボトリール断薬後、中途覚醒の多い睡眠障害、朝からの日中の非常に強い倦怠感、頻度に起きる吐き気。典型的な離脱症状が翌日から突然解消されました。
離脱症状は時間との戦いのみで治療法はないものと思っていましたのが、
これは非常に驚いています。体中の細胞がリフレッシュされた感じです。
本当に○○先生を紹介いただき感謝します。
はじめて希望が見えてきました。
また変化があれば報告させていただきたいと思います。
ありがとうございます。
転載終了

case3 「治らない」と示唆せんばかりのメディアと根幹的思考
転載開始
>>メディアは治っていない「絶望的」「悲劇的」なヘッドライン記事は書きますが、快復している情報はとりあげていないですね。なぜですかね...面白くないでしょうか。体調不良者を「被害者」とラベリングし救済救済といっているのに。
転載終了
目に入って共感した為に下記URLを転載しましたが、
これはワクチン禍に限らず凡ゆる諸症状でも同じ現象が起きます。
メディアだけの問題でもありません。
一般患者間でも普通に起きています。
残念ながら人の不幸は蜜の味と思っている人は少なくありません。
他人の不幸話に花を咲かせて何が面白いのでしょうか。
そのような人が、仮にも何かしかの諸症状に
悩まされる事になった場合、
全く同じ事が跳ね返ってくるケースに幾度か遭遇しました。
因果応報は存在します。
病は感情論で治るものではありませんが、
根っこから共に喜べる感情を持つ人間は治ります。
根っこから喜びを共感出来ない人間は治りません。
他人の不幸ばかりを探している人間も治りません。
他人の陰口や噂話、妬みが大好きな人間も治りません。
このような傾向は高いものです。

case4 「治るとは」を考える http://ameblo.jp/escape-from-fms/entry-11389535052.htmlより
どんな治療手段を選択するのも自由かもしれませんが…転載内容の治療手段や内容はどうであれ、このような遣り取りが患者及び患者家族間では少なくないようです(患者談)。
転載開始
妻を例に挙げます。
その昔、私は妻の治療法を探していく中で、
断食療法で有名な『西式甲田療法』を
研究していた時期がありました。
断食を行うことで、
なぜかさまざまな難病が治ってしまうという
不思議な力に強くひかれ、
さまざまな書籍を読んだり講習を受けに行ったりもしました。
そして自分自身で実践し、たしかな効果も感じたので、
妻にも強くすすめたんですね。
しかし・・・妻はなかなか真剣にやろうとはしません。
どうしてやらないんだ、
やったらよくなるかもしれないじゃないか。
と何度もすすめたのですが、
「だって、これやって治るって保証ないじゃん!」
とのこと。
私は愕然としました。
世の中のどこにそんな保証があるんだ、
可能性があるのになんでチャレンジしようとしないんだ!
と説教するものの、妻の耳には届かず。。
そのわりに、病院でなにか新しい治療法が提案されると
すぐにそちらに心がうつり、
入院費含めて30万円もかかるような治療を何度も受けてきました。
(それらの中で効果があった治療は、残念ながらありませんでした)
病院なんてもう期待しない!と文句を言うものの、
また新しい治療が提案されればそれに飛びつく。
一方で、
私のすすめる食事療法などは真剣にやろうとしない。
なぜ人任せの治療ばかり選ぼうとするのか、
治る可能性を放棄するのかと、
はじめて本気でケンカもしました。
でも、どうやっても妻の考えを変えることはできませんでした。
転載終了

患者自身が症状として自覚及び評価する程までに憎悪する事はなくとも、生きている限り損傷は繰り返され、そして幸いにも回復も繰り返されるものではあるが、時に経時経年により易負担部位に関してはエラーが生じる時もあり、
その後、回復も上回る程の損傷を生じ続け、その結果、症状として自覚する事になる。これが一般的な自然発症性の筋骨格系疾患や自律神経系症状に由来するものであると考えられる。
更に先天性後天性問わず、構造的な異常が生じていれば尚易損傷傾向ともなるかもしれないし、場合によっては回復も人一倍遅いかもしれない。時に人間は足底接地時の力価のベクトルも変動し、下腿や大腿外側に負荷は掛かり続け、
臀筋群の持続的な緊張も伴えば腰部への栄養供給も不全状態となり、腰部症状や下肢症状を出すかもしれないし、腹部系統を支配する内臓器の自律神経症状が生じても不思議ではない。
全ては知らないから不安になるだけで、症状形成の段階的構築要素を既知及び未来予測までイメージが付けば、別に不安になる必要もない。極端なOAでも生じていれば足底板でも用いるのもアリだろうし、骨切りも置換術も時として患者環境によってはメリットもある。
極端な関節摩耗や圧壊、壊死等が生じていない場合であれば、日常生活を見直すだけでOAも軽減されるかもしれない。由来は構造的な異常のみで生じる訳ではないからだ。その事で足底接地時の力価ベクトルも良好となり、凡ゆる諸症状も段階的に改善してくれるかもしれない。
痛くない事が不思議な事ではないし、痛い事が不思議な事でもない。痛くない事を、そして痛くない事が日々の当たり前だと思い込んでいるから、痛くなった時に当たり前ではないと思い込んでしまうだけであり、痛くない事が当たり前なら、痛い事も、痛くなる事も当たり前の事なのである。
基礎的概念はそれで良いかもしれないが、実際に臨床に昇華させるには凡ゆる可能性を考察する必要性が出てくる。前々から私が考察しているのが、基礎医学臨床医学の隔たりであり、基礎が分かっていても、それは臨床には通用しない場合もあるし、
臨床が通用しないからと基礎を見直したところで、基礎には答えなんて転がっていない事なぞ山ほどある。だから、常に対立は生じているのかもしれないし、互いが貶しあっているのかもしれない。
画像所見上、異常がある事が現症状を発している根拠はあるのか、それとも、画像所見上の異常と現症状は無関係なのか、高精度の検査機器を用いても見えないような、極めて微細な梗塞や硬化、腫瘍や断裂等もあるかもしれない。
そして、仮にも将来、更に機器も発達し、見えないものが見えたとしても、その見えたものが症状の根拠となるのか、とまで考えても、それは又別の話である。
血液検査に数値上の異常が認められるからと、その異常数値が現症状を引き起こしているのか、それとも数値と現症状は無関係なのか、それとも又、その数値は当該患者にとっては生まれてこの方、当たり前の数値だったのではないだろうか、
そもそも、この世間一般で言う異常と言う数値は何処の誰が弾き出したのか。その数値を決定する委員会の人間は製薬メーカーから何れ程の金を受け取り、どれほど年々変動しているか、等まで考えた場合、
基本的にキリがない。対集団を相手する事になる人間は、教科書に従い、ガイドラインに従い、そして患者の画像や数値には目を向けるが、患者の想いには目を向けない。
医療は患者の言う事を聞いていれば成り立たなくなる。これは残念ながら事実だと思う。保険制度がメインの医療行為と言うものに関しては、患者ニーズに全て対応しようと思うと簡単に財政破綻する。既に年々膨れ上がる医療費も、もしかしたら、これでも恐らく抑えつけた結果での額かもしれない。
患者の症状は金には代えられないかもしれないが、教科書やガイドラインを外れ、医原病含む難治化及び複合的要素が混在した症状は幾ら金を積まれても買う事が出来ない。その結果、最後は心療内科や精神科は患者の想いに目を向け話は聞いてくれるかもしれないが、それで治るかどうかは別である。
どうしても私が好きになれない業界の傾向と言うのが昔からあるのだが、術者側の「患者の疾患(症状)の由来を決め付ける」と言う行為である。私個人の性格的な問題なのかもしれないが、決め付けられる、又は決め付けると言う行為は非常に汗臭く、そして胡散臭いものに見える。
先述の通り、画像所見上の異常と症状もイコールで結ばれず、検査数値の異常と症状もイコールで結ばれず、仮にも当該医療機関で薬物治療や理学治療を行っても治っていない患者群と、治っていない事を年寄り扱いしたり精神異常者扱いしたりと、そして諦めさせたりと、不遇な想いをしてきた患者群と言うのは少なくないかもしれないが、
保険制度上やガイドラインの問題と言う話は一旦置き、それでも尚、何故回復まで運びにくい状況がこれ程までに多いかと考えると、やはり根底には「決め付け」や「思い込み」と言う思想が孕んでいるような気がしてならないのである。
患者自身は症状で悩み苦み、いつかは脱却出来る日をと願い続けている訳だから、心理状態としては極めて弱い状態なのである。その為、誰かに「決め付けられたり」「思い込ませられたり」された場合、簡単に靡く。それが画像や数値で異常があれば尚更かもしれない。
確かに、後がない、と言う患者は少なくない。切った貼ったを繰り返され、気付いた頃には薬漬けになっていた、初めは整形や内科に行っていたつもりだったが、気付いたら精神科にいた、なんて話は別に珍しくもなんともない。
そのような中でも、患者も術者と同様に流れた時間を送っている事には変わらず、先程の話ではないが、時に他疾患や他損傷を抱える場合もあれば、患者自身の環境も変化する事によって当該負荷部位の変動もあるかもしれない。何処かで見た健康法や食事を取り入れた結果、良化(又は悪化)するかもしれない。術者は教科書を開けば何か書かれているかもしれないが、残念ながら教科書には「患者の時間の経過」の概念が存在しない。
様々な因子はあるかもしれないが、このように、回復の可能性を削ぎ、そして阻んでいるのは治療する側、若しくは他の疾患喧伝によるもの、患者家族や知人友人等による誘導等もある。このように、疾患(症状)を決め付ける事は多大な影響とリスクを生む場合もあり、時として患者のみならず、回り回って患者家族、そして知人友人にまで影響を及ぼす事もある。
例えば、「この症状はワクチンですよ」「これは向精神薬ですよ」「脊椎圧壊に伴う脊髄伸張による視床下部の栄養供給不全に伴う自律神経症状ですよ」「成長期に伴う脊椎形成に伴う脊髄伸張による視床下部の栄養供給不全に伴う自律神経症状ですよ」「思春期ですよ」「更年期ですよ」「年寄りですよ」「精神異常ですよ」「ヘルニアですよ」「狭窄症ですよ」「脊髄梗塞ですよ」と推測するも、
全て可能性があり、全て間違いの場合もある。だから、確かに言われた言葉には悪意がありレッテルが貼られてしまったかのような、若しくは一生治らないんじゃないかと言うような言葉が発せられたとしても、何故、その人間はそのような単語を発したのか迄、患者自身が考えなければならないものである。
このように考えると、相互の決め付けには有害性が絡む場合もある為、私は常に「推定」と言う言葉を用いているものだが、実は今回このような事を書いたのは、とある被害者団体と話をする機会があったからだ。以前も書いたかもしれないが、
治療は個人対個人となり、団体のような集団意識が働くシステム内で動かれた場合、前進する可能性のあるものも停滞する傾向が高い為、数年前から距離は置いているものだが、時としてこのような場合も今もある。
今も昔も多くの被害者団体や患者団体のトップには、製薬メーカーから金を持っている医師が存在し、特定の薬物を処方しデータ取りの対象としているものなのだが、流石にこれだけ情報を得られ易い時代であれば、皆が皆、鵜呑みにする事なく、所属はしながらも他の治療手段を常に模索しているものだ。
『それでも尚、「○○疾患を治す」と謳う所には羊飼いの羊のように団体で流されている』と言う。アッチコッチ、と言う書き方が分かり易いのかもしれないが、先程も書いた通り、現に症状で苦しんでいる患者の心理状態は弱い為、「治す」と「決め付けてくれる」所には弱いようだ。
しかしながら、何故このような話を書いているかと言えば直ぐにでも察しは付くかもしれないが、術者側が疾患(症状)由来を「決め付けて」、患者を呼び水にする手段には患者側に相当リスクがある事を患者側に知ってもらいたい部分もある、と言う事であり、治っていないケースが多数存在すると言う意味でもある。
確かに、どの術者も全力で治そうと励んでいる事には変わらないと思うのだが、どうしても強引に持って行く傾向と言うのも時として生じるものである。とは言え、世の中を見ていれば少し強引な肉食系が好かれるのは何となく分かるものだが、相手の身体を預かる業界に関しては常に臆病でいたいものだ。
さて、そもそも世の中には星の数ほどの疾患名があり、年々増えているかもしれないが、何故コレ程までに疾患名が膨れ上がっているのかも考えなければならない。これは基礎的な生理学や解剖学、病理等で新たな発見があったからとかではない。
要は分からないから疾患名が増えている。分かっていれば増えない。適当に既存の病名を充てがえば良いだろう。しかし現状はどうだろうか。特に日常を起因とする多くの疾患に関しては、残念ながら、何処までも進んでいないように見える。もしかしたら何処までも進んでいない結果が向精神薬の適応症が拡大している証拠なのかもしれない。その為、仮にも疾患名を患者は付けられようと、治る保証もない。病名が存在するから治療法が存在するとは限らない。以前も書いたが
日本心身医学会で発表されている定義を見ると、自律神経失調症のことを「検査をしても、その症状を裏付ける所見が見出されず、また器質的病変がないのにさまざまな不定愁訴を訴える状態」としているようですが、これは「検査上は異常が認められない症状」を
定義としていると言う事であり、症状に起因する確定的診断要素は無いという事を定義としているだけの事で、定義されている事に対しての回復的希望は現段階では分からないと言う意味であり、前述の通り、仮にもそのような言われ方をしたとしても、特段心配する必要はありませんし、寧ろ心配するだけ損です。
このように、定義があるから回復が約束されている訳でもありませんし、診断が付いたからと回復する約束が結ばれる訳でもありません。その為、そこから派生する治療手段が如何なるものかを患者側が精査する必要性が極めて高くなります。それが対処療法的手段なのか、根治療法的手段なのか、ローリスクなのかハイリスクなのか等々ですね。
ひとえに、これらの症状群を見る限り、何でもアリと言えば何でもアリです。何でもアリ故に「自律神経失調症」と一括りにされがちですし、何でもアリ故に向精神薬を処方され、脳全般の機能を鎮静されがちな状態に陥っている方々も散見されるものです。
そのような結果に陥らない為にも、事前に「自律神経とは何ぞや」と知っておけば、薬に頼る必要もなくなりますし、薬に頼っても良くならない事も分かりますし、年代別に貼られるレッテルにも動じなくなるものです。』
特に、それが遷延性や進行性を示唆されるような場合、更に言えば最終的には心不全や肺塞栓等の向精神薬由来による死か?と推測されるものも、死因は心不全や肺塞栓で終結するものである。抗うつ薬が原因で自死しても、原因はうつ病であったと今の社会が決め付ける。
このように、医原病的要素も含めて考えれば益々キリがないかもしれないが、常にキリが無いなかで患者の症状を模索し続けて対峙していると、「決め付ける」と言う行為を用い、弱い患者心理を揺さぶる術者達と言うのは随分と滑稽に見えてくるものである。
改めて書くと、可能性を考えればキリがない。かと言って、そのキリのない可能性に悲観する事もないと思う。可能性と言うのは良くなる可能性も十二分にあり、冒頭に書いたように痛くないのも当たり前であれば、痛いのも当たり前だからである。両者が当たり前なのであれば、いずれ痛くない当たり前に物事が運ぶ事もあるだろう。
そのように考えれば、幾分弱くなった心理も強くなれるのではないかと思うし、決め付ける術者に対してもウザいと言う気持ちを持てる余裕も出来るのではないかと思う。

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  ~針治療から病態定義の見直しを~