藤原航太針灸院

痛み・痺れ・麻痺・自律神経症状の難治例の検証と臨床

特殊症例の相互事情3


ではどうすればと言う対案が問われるのは当たり前かもしれませんが、酒やタバコ等の嗜好品すらも依存性がある故に嗜好品として名目上存在しているのですし、早い話が報酬系に訴える摂取物全般の類に言えるかもしれません。酒飲んで酔っ払っている人に、酒飲むから酔っ払っているんですよとアドバイスをするのと感覚は近いのかもしれませんが、タバコや酒の飲み過ぎは身体に良くない事は周知の事実。公道を200キロで走っても危ないでしょう。
でも、認識が薄い事例になるアドバイスは逆鱗に触れる可能性が高まるもので、その少数例の事例で具合が悪くなった場合、双方の憤りは強まる一方なのかもしれません。しかしながら、事実を汲み取る姿勢は大切でもあり、向精神薬由来の症状は医療の皮を被っているあまりに厚く、自身も他者にも剥ぎ取りにくい事情が詰まっているものです。
「話はそれから」という乱暴な部分も現実として存在するものですが、患者が1番嫌う事はなんでしょう。治療を受ける行為に足を運ぶ事よりも、日常生活を変える行為のほうが嫌がるものです。治療であれば、来れば済みます。行動制限に関しては、患者自身が積極的に取り組まない限り得られない恩恵であるが故、治癒に至らせる道程に於ける向精神薬由来症状は患者の意識に相当左右される為、成功率は患者意識で極端に変動します。
それが数ヶ月~数年単位であるかもしれないという現実を目の当たりにした時、生きる根気すら失う患者もいるでしょう。ギリギリなバランスを保ちながら生涯を向精神薬に始まり、向精神薬で終わるヤジロベーの人間もゼロではありません。私は、そのような生き方に関して否定するつもりはありません。患者の治療手段及び人生に関しては全て患者に委ねておりますし、その生き方もその生き方であると否定も肯定もしません。
しかし、「但し」という観点で物事を見る必要性もあります。長期服薬が伴えば耐性は獲得される。耐性が獲得されれば増量しなければならなくなる。同量であれば常用量離脱も惹起される。その内に結果的に訳の分からない症状が頻発する。このような状態に陥って苦しんでいる患者を多く見ている限り、個人的には勧められないのも事実であり、早期段階で気づく事が出来れば早期脱出も可能である事も事実なのです。これらの状況が今後一層、純粋な整形外科領域疾患に悩む患者に上乗せされて悩まされる層が増えてくる可能性が極めて高いという事を考えるだけで、非常事態であるとも捉えられるのです。

治療には自発的意識が必要で、社会的認知度や世論で意識がコロコロ変わる人間は治療に向いてません。このような方々が心身を傷めた場合の追跡結果はエラい状態に陥っているものばかりです。勿論、この意味は今新規で具合の悪い状態に陥っている方には分からない話かもしれません。いきなりこれらの情報に辿り着く事はないと思いますし、仮に見たとしても信頼を寄せる事はないと思っていますが、書いている事は過去に患者が経験してきた事を文字に起こしているだけです。そこに勝る信頼性はありません。
物事には段階があるかもしれませんが、自身の身体に関わる事は趣味や嗜好と異なりスリル=リスクを味わう必要はないと思います。凡ゆる取捨選択は過去の患者が散々教えてくれているものですが、これらの状況は過去も今も未来も恐らく変わらないものである事も伺い知れるものです。何故なら、具合が悪くなった人はこの話を先ずは信用しないところから始まるからです。そこを変えられないと躍起になっても仕方ありません。
多くは痛い目に遭わない限り、そして疑問視出来ない内は病名が何十にも重なっていく事に向精神薬と共に快感を得ている人間に情報を乗っ取られているような状況でもあり、病気であり具合が悪い事に多くの人間は靡き、類似症例を持つ人間同士で傷を舐め合い、治す事には興味が無く、いざ治った人間は叩かれる構図は今に始まった事ではありません。もう一度書きますが、治った人間は叩かれます。「軽症だったから」「偶然だ」。病に軽重はないと思います。他人の痛みは他人に推し量れるものではありませんし、病は偶然治るものでもありません。
ことに中枢神経系症状がメインとなる諸症状に対して偶然を押し当てる事は患者にとって失礼な事です。治る為の努力をした人間に対し、向精神薬がガン決まりしている人間が叩く構図は明らかにオカシイもので、自身の無努力を露呈しているだけじゃないかと思うものです。因みに向精神薬を飲み続ける行為は治療努力ではありません。そして向精神薬からの脱却はお金の掛かるものでもありません。寧ろお金が浮いて助かるものです。冒頭でも書いた通り、治療は自発的意思が無ければ絶対進まないもので、比較的積極的治療にスタンスを置く手段に属する治療を受療する場合は、具合が悪くなったら救急車が迎えに来て何かやってくれるさ的な受動的な心構えでは絶対に成し遂げられないものです。
どんな症状や状況だとしても最終的には皆同じ向精神薬で陥れられているか、危険性を察知して脱却して回復しているかの二択です。その為、症例自体、病態自体は極めて単純なものです。飲むか止めるか、此れだけです。その期間、精神依存は患者個々の努力でしか成し遂げられない為に介入する余地はないかもしれませんが、身体依存で生じた症状に介入する事で早期脱却を見越している程度のものかもしれません。各論的臨床論となれば、モノアミンがどうたらこうたら、レセプターがどうたらこうたらとなるかもしれませんが、向精神薬依存からの脱却で最も重要な因子は、患者が如何なる理解を向精神薬に対して向けているかだけの事です。今更ながら此処で前提としておきたい事は、モノアミン仮説等に対しての批判を間に受けて良いのは向精神薬を服薬していない人間迄の話です。
向精神薬はモノアミンを動かします。結果、仮説ではなく本説になる為、この期に及んで精神病の脳内神経伝達物質の異常説はネズミか死人からしかデータを取っていない的な話は既に無効であり、これらの話が通用するのは服薬前の患者に限ります。飲めば変わる。その事実は変えられません。病気は時々で流行があります。やけに〇〇病の罹患者が増えたり減ったりは当たり前です。その時々の流行で病名がコロコロ変わるのを間に受けていても回復は不可能だと思いますし、医原性で現症を引き起こしていると患者ベースで疑問を持てない内も蟻地獄に陥る一方で回復は不可能です。
末尾にも書いてはいますが、流行り廃りで揺れ動く病気は病気で在らず、そんなのは疾患喧伝に乗せられただけなのかもしれません。そもそも論としてDSMを改訂ごとに見ていれば、その馬鹿らしさも分かるのではないかと思います。ロヒ50錠飲んで救急搬送とか馬鹿じゃないかと思います。それで治らないと言われても治る訳がありません。本人にとっては自殺目的の過量服薬だったのかもしれませんが、臨床として類似量の服薬をしている方はいますし、仮に臨床範囲量として定められている量だとしても極めて強い依存や耐性獲得に伴い常用量離脱を引き起こした結果、段階を踏んで類似量まで増量されている人もいます。
1日100錠200錠もザラにいます。何でこの量を手に入れられるか、許されているかは敢えて書かないでおきますが、別に不思議ではなくなってきます。このように、向精神薬は「認められている量」「認められていない量」如何に関わらず悪質な性格を持つ薬物である事には変わらない事を幾度となく目の当たりにする事になるものですが、此れ程迄に推進派と否定派が混在する精神医療の根本的な理由も考えたくもなるものです。
後述する事にもなりますが、推進派は「向精神薬で救われている。だから販売停止になれば困る」と言います。否定派は「向精神薬で具合が悪くなった。だから販売停止は有難い」と言います。推進だの否定だのとスタンスが真っ二つに分かれている中、その当事者には共通項があります。お互い共通する事は向精神薬に関連した何かを感じた、と言う部分かと思います。先程の通り、向精神薬に限らず、薬物は各々によって全く反応性が異なり、1の量で反応する人も100の量で反応する人もいます。
分かり易いように作用と副作用、と言う呼び方をしていますが、飲んで起きる反応は全て反応です。その中で生じた反応を各々で作用として掻い摘むか、副作用として掻い摘むかの違いではないかと考えています。幾つか以下に向精神薬が絡んだ混乱を列挙してみようと思います。

1)副作用、常用量離脱、離脱症状の類が「無きもの」として取り扱われがちである事。「在るもの」とした場合、アドヒアランスは急激に低下する事を予測しての事か、知っていても言えない場合も多い
2)ベネフィットを前面に出し、リスク面の配慮・周知が行われているケースが少ない事、又はリスク面が極めてオブラートに包まれて患者にしか提供されていない事
3)他国の多くは依存性等の有害性・危険性の問題から2~4週迄と処方期限が定められているにも関わらず、日本に於いてはベンゾ系に関して処方期限が存在していない事
4)仮に患者が掛かり付け医に減薬や断薬を訴えて了承されたとしても、いきなりゼロにされたり、1weeksで半分、2weeksでゼロ等、信じられない程の速度で薬を抜かれる事
5)その事で、命を落とす程の急性離脱症状や、遷延性離脱症状、遅発性離脱症状等、社会適合どころか日常生活を奪う程の事態に追いやられる患者が後を絶たない事
6)薬を止めたいと告げると出入り禁止にされる場合もある事(止めたくても止めさせてもらえない)
7)一度強い離脱症状が出た場合、同一量を再服薬しても同一ラインの症状を保てなくなるケースが大半であり、症状は一層不安定となる場合が多い事
8)1番の問題は上記リスク時に於いても「元疾患の悪化」「新疾患の発症」「気のせい」「年だから」で流される可能性が高い事
9)その事で薬物の増量が行われる事
10)学校や企業等に属している場合、上司や会社等の問題で「薬を飲まなければ登校出来ない」、「出社出来ない」等の状況に追い込まれる事
11)精神疾患(「心因性」や「気のせい」「年のせい」等も含め)と言う、診断定義が元々曖昧な根底を元に、人間の性格や特性、その時の疲労や栄養状態、周辺環境等の変動による誰でも起こりうる精神「状態」を幾らでも「疾患」として衣替えさせられる事
12)薬剤性精神変調等の見落とし※薬剤に限らず酒や糖質の過剰摂取でもそうですが(参考 http://www.pmda.go.jp/files/000144134.pdf
13)「例)〇〇病は1年間飲み続けないと治らないよ」と言われる。1年も向精神薬を飲み続けていれば既に依存性、耐性獲得により、常用量離脱発症の懸念や減~断薬時にも相当厳しい想いをする事になる

他、今件の続き
1)薬物は患者各々により各々の反応量や反応する性格が異なる
2)反応内容を作用と副作用で各々が掻い摘み、一般的には「効いている」「効いていない」で評価する
3)多くは中長期に渡る服薬で薬剤耐性を獲得する事になる為、増量しなければ脳が足りないと騒ぎ出し、同量でも離脱症状が出てくる。その内容は5)でも触れている通り、反応部位を鑑みる限り中枢神経系の運動・知覚・自律神経系になる
4)しかし、この薬剤耐性に獲得に伴う常用量離脱の概念が一般的には認知度が薄い。薄いかもしれないが、「薬は慣れる」は皆知っているはず。向精神薬に限って例外と言う事はない
5)常用量離脱の多くは(副作用も含んでも良いかもしれないが)、反応部位を鑑みる限り、中枢神経系を起点とした運動障害や知覚障害、自律神経障害となり、各々の症状が引き起こされる、引き起こされ続ける事になるのかもしれないが、どの人がどの症状を、と言う詳細な部分では全く異なる
6)この辺りから発せられる諸症状にて無理解な場合、更に枝分かれし、年齢や環境、又は患者家族等の発言より病名が変動する。多くは認知症(若年性含む)や統合失調症双極性障害パニック障害適応障害発達障害等が代表的
7)只、その多くの当初期の服薬契機は如何なものだったろうか。会社家族関係とのストレス、不眠や不安、又は製薬企業や政府広報によるキャンペーンに自己又は家族の症状を照らし合わせた結果等が多数を占めるのではないだろうか
8)次点として凡ゆる検査で陰性と判断された自律神経症状(一般的に自律神経失調症と言われる類)。星の数ほど現れる自律神経症状が何故自律神経失調症と曖昧な称号を得ている理由の1つに、同項の冒頭もある通り、検査で陰性と判断された自律神経症状であり、原因不明である事を医学会は認めている⇒既に放置放棄している。否、向精神薬を処方している為、放置放棄とは言えないのかもしれないが、それが良い事か悪い事かは又別の話
9)かと言って、仮に検査で陽性だとしても出てくる向精神薬は同じようなものであり、陰性陽性問わず同じ道を歩む。如何なる病状だったとしても出される向精神薬が同じであれば既に病名は関係ない。上げるか下げるか程度の違いである
10)これらの理由も含め、向精神薬は精神医療の専売特許ではなく、凡ゆる症状に対して処方され、現状で1番懸念しているのが抗うつ薬の類が整形領域疾患に対しても適応承認を受け、罹患層の厚い高齢者が理解出来る性格を持っているものではない事である。これが若年層であれば体力も理解力もあり、現症のVAS値低下に伴い向精神薬から脱却出来る可能性もあるかもしれないが、高齢者が一度服薬した向精神薬から脱却出来る体力も理解力もないと思うし、残念ながら私も散々実経験してきた
11)そもそも減~断薬の概念、理由、離脱症状を引き起こす可能性自体が一般認識として薄いため、その多くは一気切りされている、又は一気切りしている現状もある。簡単に言えば、腰が痛くて出された薬を飲んでいたら別な症状が沢山出てきた、でも、それを副作用や常用量離脱と認めず「年だね」とされているケースが最も多い。それで患者が文句を言えば精神科送りとなる例も少なくない。これは医療ではなく不誠実な感情でしかない

他にも書きたい事は沢山ありますが、様々な事情があって結果的に特異体質に化ける例も当たり前のようにあります。結果的に薬剤過敏、化学物質過敏、凡ゆる物質に対してのアレルギー反応etc…。これらの理由で其の後の別件での医療が立ちいかないケースも少なくないものです。しかし、その特異体質を医原性として認めない風潮の為、余計症状は混乱していっているだけに過ぎないものですが、これからはこのような患者が当たり前になると思います。その為、向精神薬さえ無ければ臨床がどれだけ楽になるか、どれだけ楽に臨床が進んでいるかと言っている理由もこの1つ。
悪質な性格を持つ向精神薬は凡ゆる中枢神経系機能に破綻を起こします。破綻を起こす、破綻が起きている事を既知していれば話は早いかもしれませんが、それを推進派は無いものと装う。それを否定派は有るものと訴える。不利で不快な情報を提示すると都合の良い情報を提示する。これらお互いその攻勢を見ている限り、向精神薬からの脱却は他者に委ねるものではなく、個の患者が強い自覚を持って努力しない限り抜けられるものではない事が分かります。
具合が悪いのは重々承知していますから気持ちは分からないでもありませんが、自身の心身に不調を来たしている人間は他者にも当り散らす傾向が高いものです。向精神薬を好んで服薬している人間ほど沸点が低くて困ります。恐らく凡ゆる閾値が極めて低くなっている証拠なのかもしれませんが、それを他者に当り散らしても具合が良くなる訳ないでしょう。このような要素が含まれているから、医療・代替医療機関では時折「向精神薬を服薬している方はお断り」「精神疾患患者はお断り」なんて張り紙を見るのです。痛い目に遭ったんだねと同情します。これらのビラを見る度、ウチはイバラに突っ込んでいるような状態だったと感じます。
とは言え、針治療は元々何処に行っても治らない人間が来るとこです。ジョーカーを引き続ける状況は様々な応用が効く力を持つ事が出来ますが、ウチに限らずベンゾ世界一の日本では石を投げればベンゾ服薬者に当たります。他の院は何をしているんだと思っているし、この向精神薬が絡んだ混乱をどのように受け止めているのか気にもなります。

実際のとこ、性格や行動の「状態」を自分らの都合の良いように「疾患」と格上げする「精神医療」も好きではありませんが、精神医療や向精神薬と依存関係に陥っている方々も現実には少なくありませんし、これらの「精神疾患」を社会的に引き剥がす事で困る人間も多くいるのは事実です。在るのか無いのか分からん精神疾患で社会と接点を繋げている人間も沢山います。
良くも悪くも精神疾患は其れ程迄に曖昧な世界。世間も社会も医療も隣のオッサンも精神医療は語れます。「パニック障害だ」「ウツ病だ」「発達障害だ」とは誰でも語れます。其れくらい根本的な基準が曖昧であり、自己の物差しでは制御不能な人間が目の前に現れた場合、自己が優位に立とうと他者を病人扱い出来る都合の良い世界でもあるからです。精神医療は優生学、支配医学と古くから言われています。自己のエゴを貫き通す為、他者を蹴落とす行為の1つは他者を病人扱いする事なのかもしれません。
精神医療や向精神薬の分野は推進派と否定派が積極的に動いています。推進派には推進する理由、否定派には否定する理由があるのかもしれませんが、推進派によって具合の悪くなった患者、否定派によって具合の悪くなった患者、ウチにはどちらも要ます。割合としては前者が多いのかもしれませんが、どっちに転んでも私は向精神薬を飲んだ事がないのですから両者の意見は常にフラットに聞き続けています。しかし、ラリっている人は向精神薬を応援し続けている、具合の悪くなった人は反対し続けている、ただそれだけの事じゃないかと思います。
その為、以前から推進派でも否定派でもないと言ってるのですが、何処から着手したら結果として具合の悪くなった人に対して治療以前に安定的な段階を踏めるのかとは考えていますし、これらの状況を見る限り、他者意見に動揺している、流されている内は回復は不可能だと言う事は確かですし、自己の身体から起きている症状は、社会や世論、流行り廃りで起きたり消えるものでは無い事も確かです。

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