藤原航太針灸院

痛み・痺れ・麻痺・自律神経症状の難治例の検証と臨床

極めて良い意味で「その程度の疾患」と言う認識


そもそも、針治療と言うシンプルな作用機序で症状に変動があると言う事は、極めて良い意味で「その程度の疾患」と言う認識をもってもらい、それは同様に「極めて安心しても良い疾患」と位置付けてもらいたくもあるのだが、
如何せん、世の中には一生治らないんじゃないかと思うような、訳の分からない病名や、年々疾患定義が変動する、診断定義が変動する、西洋医学的治療手段が変動する、西洋医学的治療手段で症状改善に至らぬ場合は一層の病名が付いて回り、キレのある薬物が派手に投与されていくと言うだけのものであり、
それらの現行疾患名や治療手段に振り回されているのは患者かもしれないし、もしかしたら代替医療と言う手段を用いる術者サイドとて、現行疾患名や治療手段に振り回されている場合、
結局は西洋医学的視点での疾患観点から脱出する事が出来ないと言う不遇な局面を患者と共に迎える事になる。よく病気を見ずに患者を見よと言うが、全くその通りであり、勿論、重症度が高い場合は治療反応性も悪いケースもあるかもしれないが、受療初期から僅かでも反応を示した場合、先ほどの「その程度の疾患」と位置づける思考も大切なのではないかと思う。
症状で苦しんでいるのは患者自身である事から、そして、仮にも過去に鎮痛剤や向精神薬の恩恵を僅かでも受けた場合、即時的に頼る傾向に陥りがちなのも、それも又、人間としての当たり前の行為かもしれないが、
フト振り返れば、そもそも鎮痛剤や向精神薬は「何を治しているのか」と言う事を振り返り、「何も治していない」と言う事に気づけば、手を出すのも控える事になるのではないかと思う。とは言え、苦しいのは事実である以上、一刻でも早く症状を何とかしたいと言う患者の意志は尊重すべきかとも思う。
そりゃ、有害性や危険性に関しては言うだけなら楽だし、書くだけならナンボでも書ける。但し、スタンス上、治してナンボの世界であるのならば、治す事だけでしかステータスは位置付けられないものである。そうならないように努めるのであれば、薬物を用いぬ前に粗方の症状を取り去るスキルが必要になる事が責務にもなる。結局、スキルが無ければ患者は目の前の薬物に手を出す。それを否定したところで(薬物を結果的に用いてしまう)間違いなのではないかと最近思うようになってきた。

「その程度の疾患」と言う幅も限りなく広いし、術者のスキルによっては全く症状を動かす事も出来ない場合もあるかもしれない。見立てが異なれば処置部位も異なる為、治療反応性も歴然としてくるのが、全身投与となる薬物系とは異なる部分でもある。
故に、常に確実性と再現性を、仮に1人でも追求し続けなければ、毎回の治療がイチかバチかとなり、術者側が疲弊するだけになる。
確実性と再現性を有する事が出来れば、今度は拡散する事が出来る。処置部位に対して力価が減量される事なくアプローチが可能である針治療に関しては、他の治療手段より最も確実性と再現性があり、それに伴い拡散性が強い治療手段である事も改めて知らなければならない側面もある。
改めて書くが、針治療で症状が変動すると言うのは「その程度の疾患」であり、「その程度の疾患」を動かし続けたとしても「オレ凄い」とか、馬鹿みたいに自画自賛して自慢話をするのではなく、それは針を刺せば当たり前に起きる反応であり、既存の疾患概念を覆したとかと言うのはお門違いであり、既存の疾患概念が間違えていただけの話で、
「オレ凄い」とか「針凄い」と言う以前に、既存概念の誤りを見つけた事は凹みの対象となる。凹む事が出来たら、様々な疾患概念の誤りが見えてくる。そこから驚異的に治療に対しての概念は変わり、様々な既存の疾患概念に対しての誤りも手に取るように分かる。
一部は治療を通して判断するような乱暴な方法もあるかもしれないが、治療反応性を持って「この疾患とは何か」を掴む事は容易に出来る。其れくらい、針と言うツールは使い方によっては様々な角度から物事を見つめる事も出来る。

故に、この事は多くの患者に気づいてもらいたい事でもあるし(一個人の診断でビビってんじゃないってこと)、多くの代替医療にも気づいてもらいたい事でもあるのだが、既存の診断定義や病態定義に関わる治療法の手段に針治療と言うものがドレだけ積極的に介入されたデータが存在し、ドレだけ確証性の高いアプローチがされたデータが存在し、解剖学的にも意義のあるデータが存在するかと見た場合、残念ながら針治療に関しては皆無である。
その為、この時点で現場の人間と、論文書きが好きな人間と、既存概念からしかデータを抽出しなかった人間と、基礎医学を好む人間と、もしかしたら薬理学と神経生理学と整形外科学との間でも、大きな壁が常にあり、お互いがお互いを貶しあって牽制し合っているだけであり、
一般的な患者が目にする日常生活を起因とした各種疾患に対しての治療手段と言うのは、大抵が薬物治療であり、もう少し段階を追えば、非オピオイドを用い、オピオイドを用い、向精神薬を用いると言うだけで、それは凡ゆる疾患でも変わりはない。それが、どの段階の薬物に対してでも言えるかもしれないが、どの薬物とて全く治しているものではないし、恐らくその多くにも書かれている事だろう。「これは対処療法」だと。
とは言え、それすら患者は「楽になるなら」と「今」の痛みに負けて服薬する。かと言って、それが悪いわけではなく、そのような情報が今のマジョリティでしかなく、現行医療の遣り方に過ぎないと言うだけの話であり、それを引っ張り上げ、「医者は薬しか出さない」「その薬も効かない」「飲んだら依存した、止められなくなった」等々の話も個人的には鬱陶しい。
それが良くも悪くも当たり前の世界なのであり、その当たり前に対して肯定否定を繰り返したところで、ここ最近は精神医療推進派も反精神医療派も、否、医療派も反医療派も胡散臭い匂いがプンプンしないでもない。要は凡ゆる物事に対してでも言える事かもしれないが、医療をウリにするも、反医療をウリにするも、本質的な性格は変わらず、呼び水にしている時点で全て胡散臭い。
医療推進派には医療推進派の人間が集まり、反医療派には反医療派の人間が集まる。只単に、それだけの事であり、患者の自由選択の意識を誘導しているだけの支配的願望は両者に存在する。故に、どちらのスタンスの立場の人間だとしても、患者は何処まで安心して身を任せて良いものか悩むものである。
アレは良いとか、コレは悪いなんて主観であるし、そもそも、それらを述べる人間の背景に、どのような過去があったかにもより、これらの評価は大きく変わるものである。臨床データとて幾らでも捏造出来るし、その捏造データを元に述べたところで、本人には非事実であると言う認識がなくても、嘘が本当になって広がっていく事柄など沢山ある。
そもそも、健康か不健康かなんて線引きは、他者がするべきではなく、患者自身が線引きするものである。その患者個人の一番重要な感覚を奪うのも(奪っているのも)又、医療派であり反医療派でもある事だけは忘れてはいけない事かもしれない。

余談…兵庫に往診に行く結構直前まで、北海道にも往診に行ってたんですよ。青森から北海道へは青函トンネルを抜けていく訳ですが、トンネルを走行中、車内アナウンスで
「いよいよ、北の大地、北海道です(うろ覚え)」
的な期待感を高めさせてくれたのですが、トンネルを抜けた風景は、国道から眺める見慣れた森田村と酷似していて「大して変わんねー」と言うのが正直なとこ。でも、トンネルを抜けた矢先で赤とか黄色とかギラギラした看板が沢山立ち並んでいても、それはそれで印象が変わったんだろうなぁと勝手に妄想しながら。結局は、何も無い自然に構成された景色が一番目に優しいと言う事を改めて感じます。クスリは赤とか黄色とかでギラギラした名前が付いてて凄いですね。

参考関連(クリックでリンク先にジャンプします)

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