藤原航太針灸院

痛み・痺れ・麻痺・自律神経症状の難治例の検証と臨床

疾患名依存と薬物依存の弊害


全く関係ない職種の方は勿論知らない世界だと思うが、非日常性の高いアクシデントに苛まれた時の対策と言うのは知っていても損はない。但し、非日常故、誘導先で起きるリスク面が軽視されがちになるのは事実。何度も書いている事だが、何かの作用を求めれば必ず反作用と言うのは付き纏う。それを如何様に天秤に掛けるか、それをどのように評価するかは患者側であると思うが、恐らく、どの医療機関も非医療機関も個のメソッドを提示して症状と対峙する事になる為、ベネフィットもリスクもバラバラであり、これは保険内治療、保険外治療問わず同じである。
どの人間も都合の悪い事は大々的に言わない。ベネフィットは過大に伝え、リスクは過小に伝える。そうでなければアドヒアランスが悪化する事は誰でも知っているからだ。しかし、必ず全ての治療にはリスクは付き纏う。それでも又、許容出来るリスクと許容出来ないリスクが存在する。許容出来るリスクとは、治療時、若しくは治療後一過性で済むリスクである。許容出来ないリスクとは不可逆的に損傷を起こす程の破壊が伴う事だと思う。それが仮にも一部細胞が不可逆変性を起こしてでも、他の器官が充分に代償的に機能を果たして予後を幸せに送れるのであれば未だしも、常々取り組んでいるオピオイド系鎮痛剤や向精神薬は流石に軽視出来ない。
これには法規制の問題もある。処方制限がない日本では、特にベンゾジアゼピン系を代表とした薬物の依存性や耐性獲得に伴う常用量離脱、中長期的服薬に伴う減~断薬後の離脱症状の問題など、規制がない故の日本特有のガラパゴス的な問題や事情も多い。勿論、向精神薬は時と場合により非常に有益な結果を齎すのも十分に知っている。但し、1999年以降の精神科バブルにより最後は向精神薬の有益性よりも不利益性の問題が上回った。
このように、中長期的に漫然とした向精神薬等の投与~服薬により、自分自身や近親者が向精神薬絡みの医療を経時経年で実体験し、服薬する毎に症状が憎悪又は新たな症状が出始めた時に初めて調べ、それから向精神薬や精神医療の実態を知る事になる為、理解を得られる迄には極めて時間も掛かる。且つ、これらの話題は公けにし難い事実と言う観念も伴い、情報が波及する事なく不遇な想いをしている方は少なくない。未だに精神科や心療内科に通っていると言う事を大っぴらに出来ない人も多いようだが、今の時代、精神科や心療内科ほどカジュアルな科はないと思う。しかし、其処で処方されるような向精神薬は全くカジュアルなものではない。
関連職種に就いている方も、日々の業務に追われ、目の前にいる人間が仮にも向精神薬の副作用や常用量離脱等で発生している症状によって「今の状態である」とも認識し難い。これらの向精神薬や精神医療の歴史や実態や成り立ち、向精神薬の反応性や中長期的な服薬に伴う害反応を知る、学ぶ、理解する為には比較的時間の掛かる事かもしれないし、残念ながら、このような事を学んでも一切「得が無い」「寧ろマイナスである」と言う印象を受けるかもしれない。知って学んで理解したところで、目の前の患者が即時的に良くなる訳ではなく、患者自身が知って学んで理解しない事には全く始まらないと言う事にも気づき、途中で面倒臭くなる。
とは言え、飲んでいるもの、食べているものには必ず作用と反作用があると言う事は事実。仮に何かの症状を誰かが呈した場合、患者が取り込んでいるリスクファクターを学ぶ事は極めて重要な事でもあり、最も重要視しなければならないのは薬なのではないだろうか。
その部分を蔑ろにし、ベンゾ系を長く飲んでいたら幻聴や幻視が出たから統合失調症になりましたね、とか、呆けましたね、とか、手前の物差しでは計り知れない言動をする人間が目の前にいたからと発達障害ですね、とか、烏滸がましいにも程があるのだが、それが現状の医療の考え方なのかもしれず。明確な線引きが不可能な精神疾患と言うのは様々な場面で様々な職種、人間にとって垣根を越え、悪い意味で(この人達にとっては)便利な使われ方をされている。そのような中、そのように不遇な境遇に追いやられてしまった人も、良くなる為には少しでも歴史と背景を知る事も大切なのではないかと思う。

厚生労働省医薬品等安全対策部会安全対策調査会は、2016年10月25日(火)「ミルナシプラン塩酸塩」など、抗うつ剤3品目について、これまでは「禁止」とされていた自動車の運転を「注意」にするなど使用上の注意の改訂が了承された。今回「自動車運転禁止」から「注意」に改訂された抗鬱剤は、
・「ミルナシプラン塩酸塩」(トレドミン
・「ベンラファキシン塩酸塩」(イフェクサーSRカプセル)
・「デュロキセチン塩酸塩」(サインバルタ
デュロキセチン塩酸塩製剤の使用にあたっての留意事項について(平成28年3月18日付通知)
厚生労働省は、平成28年3月18日付で医薬・生活衛生局審査管理課長及び安全対策課長との連名で各都道府県衛生主管部(局)長等宛に「デュロキセチン塩酸塩製剤の使用にあたっての留意事項について」を通知しました。
この通知は、デュロキセチン塩酸塩製剤((販売名:サインバルタカプセル20mg、同カプセル30mg。製造販売元:塩野義製薬株式会社))が18日「慢性腰痛症に伴う疼痛」を効能又は効果として承認されましたが、本剤が自殺念慮、自殺企図、敵意、攻撃性等の精神神経系の重篤な副作用が発現するリスクがあることなどから、その使用にあたって、十分留意するよう医療機関及び薬局に対して周知するよう要請したものです。

「慢性腰痛」と言う曖昧な疾患名にサインバルタが承認され、今後も処方量は増大するものと推測されるが、罹患層として厚い整形領域の腰痛患者に対してサインバルタを飲ませ、運転を「禁止」とする訳にもいかずに恐らく改訂されたものと推測するが、現場に居れば元疾患は良くなってもサインバルタ単剤すら抜くのにドレだけ患者は苦労している事か。
飲みたくなくても止めたくても薬が怖くても、一度中長期的に服薬した場合は下手に減らせば極めて厳しい禁断症状が出る為、抜けきる為には微細に減らしつつ数ヶ月から数年掛かる場合もある。場合によっては年齢的に体力も追い付かず、それこそ死ぬまで薬物調整を行いながら付き合わされる事にもなる。
気楽に付き合える薬達ではない事は確か。リリカでもトラムセットでも他の向精神薬でも禁断症状が出るリスクは避けられない。その禁断症状の多くは、整形領域「外」の諸症状。腰が痛いからと出された薬を飲んでたら自律神経症状や精神症状(脱抑制と言うのが分かり易いだろうか、異常興奮や暴力性、攻撃性、極めて強い不安や焦燥、自殺企図等)が出始め、
これが服薬初期であれば患者自身も時系列を追い易いから気が付くかもしれないが、数ヶ月後に症状が出てきたとか、服薬の主導が親や子ども、施設等の他者が握っている場合は、そこに関連する人間がどれほど理解があるかも重要になってくる。
そしてもう一段階の問題として、薬物だと気付いても、直ぐには止められないと言う悪循環があるし、月並みな表現だが、向精神薬による副作用や離脱症状も世間では存在しないモノとして扱われがちである為、結局はドロドロになってくる。このような情報を常に患者に提示し続けてフォローアップする整形が何処まで存在するか。飲ませたら死ぬまで責任を持つべき。其れくらい状況は酷い。

自然発症性の諸症状の多くは日常生活で惹起され、憎悪寛解を示し、時に無加療でも自然治癒し、時に中長期的に症状に苛まれる。加療するなら早いに越した事はないが、ある程度ギリギリにならない迄は多くが我慢する。多くが我慢する事になる為、症状の度合いも飛躍的に高まるものだが、まだ、この段階では耐えられるケースもある。幸か不幸か例えば、整形領域症状の疼痛性疾患であれば、今ではキレのある鎮痛剤も簡単に出されているし、場合によってはそれで抑えられる。
その抑えられている状態が「治っている事」なのか「抑えているだけの事」なのかの評価に関しては、ここは一旦患者に委ねようと思う。医療選択の自由は患者依存であり、患者が良ければそれで良いと思うタイプでもあるし、後述する事になるが、患者自身が気付かない限り進まない事も多いため、この段階では無理な押し付けはしない。何が正しいとか間違いだとかと他者が言うのは極めて烏滸がましいと思っている為、私は患者自身の意思に委ねている。
様々な人間が情報を発信し、吸収していると思う。さて、此処で情報を摘み取るに大切な事は、臨床反応上も踏まえているか否かと言う部分ではないだろうか。拾った情報を只垂れ流す、アレは危険、コレは安全、と。これは誰にでも出来る。心身にとって危険や安全と言う情報には必ず医療や医学、健康と言うカテゴリが付き纏うかもしれないが、原則として自身自らの治療反応上も踏まえた上での説明の有無が、情報の精査には必要になってくる。
改めて書くと、現場に立たない人間が机上で危険だ安全だと言うのはオカシな話なのだ。全て患者の体内で起きている事情や事象に対して適当な事が出来る訳はないものだと思うのだが、医療や医学、健康と言う情報は随分と垂れ流しされているのが現状である。
私は常々「良くなる方法」ではなく「良くならない方法」を常に収拾している。それは日常生活上に於いてのリスクファクターだけでなく、世間一般で治療と標榜されている内容も含め、「良くならない方法」が分かれば、それを「行わない」だけで治癒速度が上がるからだ。
だが恐らく、その多くは「行わない」事は無理だと思う。何故なら、症状発症の起因が日常生活で起きている以上、極端に重症度が高く、寝たきりレベルにならない限りは、その「良くならない方法」を取り込まざるを得ない現実があり、悪化因子と自然治癒能力は常に天秤に掛け続けられる事になる。それでも又、幸いにも「症状」は良い意味で行動レベルを強制的に下げてでも回復に導いてくれる。それを患者周囲の社会が許容してくれるかどうかは別な話だが、発症したとしても、その時点で無理さえしなければ、無加療でも経時的に自然軽快する場合が多い。
しかし、幾ら行動レベルを下げても回復しない場合もあるし、悪化因子の取り込みに天秤が傾き続けた場合は「治らない」。「治らない」ばかりか重症化していく。その結果、休養のみでは回復に至らない場合は何かしかの治療を求める事になるのだが、ここで一度考えなければならない事がある。その治療内容にも「良くなる方法」と「良くならない方法」があると言う事だ。
此処でカテゴリは2つに分けられる。対処療法と根治療法である。対処療法と言うのは、臭いものに蓋をする手段である。臭いものに蓋をし続けても、蓋の中では病態は常に蠢き、時に大切な信号である症状を自覚させない事で時間が進み、いつかは塞ぎきれなくなる。塞ぎきれなくなったから「悪化しましたね」と一言で片付けるのも又、対処療法をしている人間であるからタチが悪い。

最近になって思うのは、対処療法とは用いる人間を選ぶのではないかと感じる。薬物も注射も時と場合と人を選ぶ。対処療法の用い方を知らない人間が対処療法をしても、一時的に打ち消された痛みに賞賛を向け、そして依存し、最終的には自身の心身を破壊し続けているケースと言うのは少なくない。
しかし、対処療法しか知らなければ対処療法しか出来ない訳なのであるし、対処療法と根治療法の概念も元々ない場合も考えられる。特に薬物等に関しては、日本は海外に比べて法規制が極めて緩い(無い)為、リスクは右肩上がりでもある。

とは言え、発症由来の大元は何であるかを振り返れば、然程難解な答えでもないのだが、こればかりは患者視点で考えれば、その場凌ぎであると自覚しているものが単に中長期的に継続せざるを得なかっただけかもしれないし、対処療法も根治療法も表面上は「治療」と標榜されているのだから、結局は患者が気付かなければならない事も多い。
過去から漫然と使用されていると言う歴史のみで、誤りも正しく感じてしまう人間が圧倒的多数である事も踏まえれば、その先の画像所見上と現症状のマッチング、現症状と薬物のマッチング、何故減少上と薬物がマッチングしないのか、術後再発率や3年後、5年後、10年後の予後迄の話となると、中々理解が及ばないのも分かる。
症状とは非日常的なアクシデントである。いつ起きるか分からない非日常の出来事に対して事前準備している人や、事前に知識を蓄えておく人は中々いないと思う。無縁な症状に対して、わざわざ基礎医学ベース、臨床医学ベースで正誤や裏取りをしている人と言うのは普通に考えて、いない。普通に考えていないかもしれないが、その非日常と言うのは突然訪れる訳でもあるから、知らなくても良いと言う訳でもないと思う。
これが例えば地震や火事等の災害であればどうだろうか。幾度となく事前に対策はされているかもしれないが、これが突発的に生じた自身の身体内部で起きたアクシデントに関しては些か対策は講じられていないようにも感じる。否、対策は講じられているかもしれない。
その1つが「予防」だ。とは言え、医学的な「予防」と言う単語を聞くとゾッとするのは私だけではないはずだ。予防でもないのに「予防」と言う。予防で健康被害が生じたと言う歴史は過去から現在に渡り繰り返されている。そもそも、予防と言うのは注射を打つ事でもなく薬を飲むことでもない。ボケ予防として抗うつ薬が出される時代に何を言っても仕方ないかもしれないが、そのように至った背景まで知る事が出来れば、別に何て事はない。
如何せん、その将来を案じ、施行した人間にも悪気がなかったとした場合、責任の矛先と言うのはなくなるし、それが法的にも許されている行為となる以上、患者の立場と言うのは常に不利となる。予防と言うのは医学は教えてくれないと思う。もっと身近な因子から学ぶものであり、常に生きている以上リスクは存在すると言う事から学ぶべきなのではないかと思う。
改めて書くと「良くならない方法」と言うのは幾つもある。それは皮肉な事に患者が沢山教えてくれる。残念ながら、針治療と言うのは凡ゆる治療手段に対しても抵抗性を示す難治例が集まる所でもあり、患者が持つ情報量と言うのも結果的に莫大になる。それは今後も蓄積され続ける事になるだろうが、見方を変えれば「良くなる手段」と言うのも絞られてくる。これが治療にフィードバックされていく事になるのだが、結局、情報を精査すればするほど要らないものは予想以上に多い事にも気付く。
先述した通り、鎮痛剤も向精神薬も手術も健康食品も全ての代替療法も「治療」を標榜している。その為、何が「治療」になるのか、どのような「治り方」が「治療」であるのかと言うのは患者自身が調べて気付くしか手立てはない。治療を標榜する臨床医学は常に利益が関与する。業者や術者は誰も「ウチでは治りませんよ」とは言わない。業者や術者の誰もが「治る」「治す」と言う世界である以上、ゴッドハンドはウヨウヨ存在する。そんな世界だと知る事が出来れば、仮にも治療を受けなければならないとなった時、患者が知らなければならない事も多いのではないかと思う。

少し立ち止まって考えれば、仮に自身が何かの症状に悩まされる事があり、無加療では自然治癒しない事態に陥った場合、どのような人間に頼ろうかと考えた時、オカシな業者も山程存在すると再認識する事になる。だから私は、常に「自分で出来る範囲の事は自分でしたほうが良い」と言っている。自分の身体は自分が一番知ってるはずであり、自分の身体を治すのも自分である事を一番知っているはずであり、案外発症由来と言うのも自分自身である事も一番知っているはずであると思う。
散々こちらは第三者にコンサルした結果、出された薬を飲んで抜けられなくなった人間を見てきており、薬を飲む前なら幾らでも早期回復する可能性がある事も治療反応上知っているからだ。泥沼に入り込む理由に薬物と言う存在は本当に切っても切れない。泥沼に入り込みたくなければ医療を介入させなければ良いだけの話だ。介入度が低ければ低いほど程、早期回復は得られる。そのように重症化しない為にも幾つか患者自身にも気付いてもらいたい事もあり、なんやかんやと書いている訳だが、
先ずは病気に対しての理解ではないかと思う。何故、病名と言うものが存在するのか、と言う事だ。その病名は何の為に、誰の為に、何がキッカケで、どの時代にどのような経緯で創られたかも知る必要がある。そのような中、それでも尚、全ての人間が凡ゆる症状を発症する可能性はある。これが大前提となり、患者の周辺環境や基礎的な身体状態によって病気と言うのは幾らでも変動し、再燃率も異なり、改善速度も異なる。
若干踏み込んで書けば、発症時期も発症内容も全く異なるのだから、改善速度も全て異なるだろう。年齢も体重も身長も、今何を食べているか、過去に何を患ったか、何を患い何の薬をどのような意味を持ち、どのような価値で飲んでみたか等まで全て含まれてくる。このように、改善速度と言うのは、否、治るか治らないかも含め全て異なるかもしれないが、全て異なるのが当たり前であり、同じ環境を持つ人間は誰ひとり居ないのだから、あの人を見て羨ましがる理由も蔑む理由もない。常に症状には個体差があり、症状は誰のものでもなく個の存在である事は決して忘れてはならない。
では、周辺環境によって病気と言うのは幾らでも変動すると言う事についてだが、これは何を示すかと言うと、患者自身、又は第三者の刷り込みが一番の要因になってくる。その1つが非疼痛性疾患の代表格である精神疾患である事は幾度となく述べた。そして、精神疾患名を事ある毎にひけらかして歩く人間は治らないと言う事も述べた。周りを見渡しても「私はうつ病です」と笑顔で言う人間は散見するが、「私は高血圧です」と笑顔で言う人間は見た事がない。これが現疾患「名」に対しての依存である。
だが、その疾患名に対しての依存を取り払おうとすると怒られる。恐らく、この意味を理解出来る人は多いのではないだろうか。治りたいのか治りたくないのか、問うている事は簡単な二択でしかないのだが、このように疾患名に対しての依存がある限り治る事はない。この人達にとっては在るのか無いのか分からない精神疾患名が自分の生きる価値となり生きる意義となる。それであれば私たちが邪魔をすべきでもないと思う。そうっとしておくのが一番良い。治りたい人間しか相手にしてはダメだ。
薬を飲み続けて治った人間なんて見た事ないし、薬を飲み続けている以上、病名からも病気からも抜け出せない。そもそも、このような場合、副作用や常用量離脱が現症状と合致しているのではないかと情報を提示してもシャットアウトするのだから、端から相手にされないのも分かっている。相手にされなくても、相手にされてなくても、この段階では私は全然構わないのである。それもこれも全ては疾患名依存から脱却したい人間に対しての情報ともなるからだ。
次点としては薬物依存である。本来であれば、このような事象からさっさと私は離れたいのだが、現場では100発100中で突き当たる。改めて書くが、向精神薬依存の問題は、凡ゆる症状の延長線上に存在するもので、私は元々精神疾患向精神薬の依存患者を専門で相手にしている訳でもないし、精神疾患名に依存した患者とも専門で対峙している訳ではない。
あくまで結果的に処方された向精神薬から派生する害反応に対して危機感を抱き、中長期的な服薬に伴うリスクを述べ続けているだけで、「うつ病」や「適応障害」、「パニック障害」、「統合失調症」と言う疾患名を相手にしている訳ではない。そもそも、診断定義が曖昧な精神疾患なんて存在しないと思っているのだから、これらの疾患名を挙げられても、これらの疾患を治すのではなく、告げられた疾患名に付随する薬物に対しての害反応を検証し対峙しているに過ぎない。
冒頭でも書いたが、疾患名にも薬物にも依存していない人間ほどさっさと治ってくれる。しかし、どうあがいても薬物問題に突き当たる以上、そして悪化因子が薬物であるならば薬物問題は必須となる。これ又向精神薬になるのだが、先程と同様に例を挙げれば、「あなたに向精神薬は要りません」と言うと怒られる。その反面「あなたに降圧薬はもう必要ありません」と言うと喜ばれる。これも向精神薬と言う良くも悪くも極めて優秀な依存性が成す技なのだろう。精神疾患名も向精神薬も止めずに「治りたい」と言われても無理な話なのだ。
このように、精神疾患名や向精神薬に依存している人間は、何処までも病気でありたいのかと常々思うのだが、これも患者本人がどう思っていようが勝手な為、私はその経過を追い続け、経時経年でどうなるかを調査、観察し、治りたい人間に対して事例を伝え続ける事しか出来ない。いつの日か、この情報は薬物を服薬する前の人間と、疾患名依存や薬物依存から脱却したい人間にとっては必要な情報となるからだ。
先ずは、この2つではないだろうか。その疾患は「何の為に創られたのか」「誰の為に創られたのか」「何がキッカケで、どのような経緯で創られたのか」の歴史を知る事は極めて重要な事であると思うし、その疾患とやらに罹患した事で「誰がどのようにメリットを生じ」「誰がどのようにデメリットを生じ」るかの背景まで踏み込んだ場合、そもそもの精神疾患や精神医療と言う存在は支配医学の歴史でしかない事を知り、今抱える疾患名の存在価値や、向精神薬の存在価値に対して異議も生じるのではないだろうか。

参考関連(クリックでリンク先にジャンプします)

【電話】 0173-74-9045 又は 050-1088-2488 (携帯 090-3983-1921)
【診療時間】 7:00~21:00 時間外対応可  【休診日】 なし 土・日・祝祭日も診療しています
【pcメール】 fujiwaranohari@tbz.t-com.ne.jp 適応症状・非適応症状・病態解釈・経過予測・リスク・費用・治療内容等のご相談はメールでも受け付けています。お気軽にご相談ください。
   
 ~針治療から病態定義の見直しを~