藤原航太針灸院

痛み・痺れ・麻痺・自律神経症状の難治例の検証と臨床

医療化の弊害


医療化の弊害が叫ばれて久しく、それでも尚、健康被害が生じるリスクを冒してまでも薬を齧り続ける必要性があるのかを問いたい面もある。100歩譲って、同量で生涯の幸せを獲得出来るのであれば反対する事はない。但し、薬物とて抵抗性を獲得するタイミングが伴う以上、高確率で薬を調整し続ける日々に追われる事になる。
副作用なのか常用量離脱症状なのか、切り替えた際の過去の薬物による離脱症状なのか、もしくは切り替え後の新たな薬物の副作用なのか常用量離脱症状なのか、多剤による相互作用で生じているのか、もしくは現病としての症状なのか、誰も判断出来ない領域に足を踏み入れる事になるだけで、それは闘病とは名ばかりの調整という日々であり、脱出不可能になる。

腫瘍や感染の類は別として、積極的に観血的治療を施す側と、積極的に保存的治療を施す側で、これほど迄に何十年も対立し続けるとは夢にも思わんだが、どちらに軍配が上がっているかと言う前提で話を進めれば、明らかに後者じゃないかと思う。
但し、これは前者を選択した患者の根底的思考の中で、1つの一大イベントを征したと言う過去が存在する事により、仮にも症状再発(構造的異常の再発含む)が起きた場合、その後に保存的治療を受療する場合に於いても、その根底的思考が1つの障壁になっている事は確かである。
日常生活に起因する大衆疾患に関しては(診断上、ヘルニアや狭窄等の器質的異常を含む)、一般的な患者は大いに勘違いしている部分が読み取れるのだが、なぜ勘違いしているかと言えば、それは画像所見に依存した診断及び病態定義の説明に由来すると言える。
さて、このように、人間の身体は幸いにも有限であり、一部奇形や椎体異常はあれど、その多くは類似性を持つ生き物であり、治療に関しても、それは有限である体内で施されるものである為、治療をする事は難しい問題ではない。しかし、人間の心理と言うのは無限である。
無限であるからこそ、今の発展はあるのかもしれないが、それは人間と言う物事以外では大いに寄与した。しかしながら、有限である体内で巻き起こっている事象に関しては、無限の心理で考察したところで、それほど良い結果が起きた事と言うのはあるのだろうか。
その為、保存的治療のように、ビジュアルも地味な手段よりも、派手に拍手喝采が起きるような観血的治療が脚光を浴びるものである。
人は目立つものに引き寄せられる生き物である事を、針治療と言う地味な治療手段を用いていればよく分かる。それらの多くは、既に手術を3回も4回も施され、既に薬物により初期症状とは異なる凡ゆる自律神経系異常をきたし、強い鎮痛剤により仮にも患部の鎮静作用が得られていたとしても、薬物による鎮痛効果に甘え、更なる脊椎の圧壊を生んでしまった。
そのような難治例に移行させてしまったのも、また、根本的概念に手術であり薬物であり、それらが「治療」であると数年数十年に渡り捉えていた事に伴う異常事態である事には変わりない。一般的な患者も、医療機関掲示している観血的治療の症例には目を通している事だろう。さて、それは真実なのであろうか。
術直後の症状軽快例に関しては、短期的な結果である事を見てはいるだろうか。あくまで大切なのは、短期的な結果ではなく、中長期的な結果である。しかし、残念ながら、その多くは追跡不能となる為、掲示する事は難しい。それであれば、今度は医療機関外で提示している患者が発信している情報を見るのも良いのではないかと思う。
人は、何処までも疑う生き物である。私は、疑う事に対しては賛成である。自分の身体を預ける事になるのだから、とことん疑うべき事は疑うべきだ。が、何故か手術や薬物に対して疑う人は少ない。
だから、その後に裏切られたと言う怒りや悲しみを持ち、針治療を受療される方々も多いのだが、別に手術や薬物は患者を裏切った訳ではない。そのような手段でしかないと言うだけのものだ。

多くの患者は過去に受けた診断名に固執する傾向が高く、それがセカンドであれサードであれ、
線維筋痛症「として」の治療』、『慢性疲労症候群「として」の治療』、『起立性調節障害「として」の治療』、『自律神経「失調症」「として」の治療』、『うつ病「として」の治療』、『発達障害「として」の治療』、『睡眠障害「として」の治療』を望むが、「そんなもんはありませんが、その症状で困っているなら治療します」と言うと治療を拒否されるケースも多くあり、診断名に固執している患者思想が表在化する瞬間でもある。一体、上記診断(これ以外にも星の数ほどあるが)にどれだけの価値があり、意義があるものだろうか。症状群が診断名に切り替わり、症状群を一纏めにしたものが診断名に切り替わり、人の性格が診断名に切り替わっているだけである。
上記診断に対して処方されている薬物を列挙してみたらどうだろうか。全て向精神薬の処方対象である。向精神薬を処方する時点で、現医学は患者に敗北している。敗北を認めるなら向精神薬なんて処方せずに放置しといてもらいたい。これ以上、向精神薬由来での被害者を作らないでほしい。向精神薬由来の諸症状ほど、厄介な病気は存在しない。

診断名に固執する理由の真意を患者から聞いた事がないので分からないと言うのが正直なところなのだが(さすがに其処までするとイヤラシイしね)、少し考えてみれば分かるが「診断名に困る理由」と言うのは無い。診断名に困ったところで、診断名が覆される事もなければ、症状が消失する事もない。
その多くは「症状に困っている」訳で、病院に行ったら「そんな」診断名が告げられたと言うだけの事で、それが現医学では限界を超えている諸症状故に、向精神薬を処方され、中枢神経系を弄ろうとされているに過ぎない。
向精神薬は何にでも効く夢のような薬だ。脳を抑え付けるから当たり前の事なのだが、その代償は果てしなく大きく、1度でも、その反応で「具合が悪い」と言う状況が作られなかった限り、それは患者にとって極めて「有効治療」であると自覚する事になるだろう。
古典的な有効域と致死域が狭い毒々しい薬は滅多に用いられる事はなくなった昨今、患者サイドでの視点で見れば、良い見方をすれば「安心安全なおクスリ」かもしれないし、更に異なる視点で見れば、「安心安全な故に依存し易いおクスリ」と表現しても間違いないかもしれない。改めて考えれば分かるが、降圧薬や高脂血症治療薬等は患者間で秘密裏に売買される事はあるだろうか。おっかなびっくりとインターネットで購入する人間はいるだろうか。薬物投与に金の掛からない人間が大量処方してもらい、横流ししているだろうか。
少し周りを見渡してみれば分かるが、降圧薬や高脂血症治療薬の服薬時間を今か今かと楽しみにしている患者はいるだろうか。向精神薬は、それ程迄に強い依存性を持つ薬なのである。向精神薬や鎮痛剤の類も含め、これらは快楽に繋がる為に、止めるに止められない状況に追い込まれる。
ここでは1度、ビジネス的な論点は置いておこう。「医者は患者に対して向精神薬を中長期に処方し、依存させ、見えない鎖を患者は首に巻かれている」とか、「製薬メーカーからの献金がどうだとかこうだとか」、と言う話を抜きにして考えていく。通常、これらは一般患者は知らない訳なのだから、これらの話は知っている人間同士で酒の肴にでもしとくのが良いと思う。オトナの世界ってのは結局は金で幾らでも変わるんだから。
そうではなく、もっと患者視点に立った論点で話をしていく事で、患者の意図も汲み取れるのではないかと常に考えているのだが、固執する真意は患者自身にメリットがあるからではないかと言うのも考えられる。
〇〇病で無ければならない理由。〇〇病として治療されなければならない理由。純粋に「治りたい」ではない理由が其処にはある。

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では逆に考えてみるとどうだろうか。逆に考えてみたらどうだろうか。『線維筋痛症「として」の治療』、『慢性疲労症候群「として」の治療』、『起立性調節障害「として」の治療』、『自律神経「失調症」「として」の治療』、『うつ病「として」の治療』、『発達障害「として」の治療』、『睡眠障害「として」の治療』を患者は望み、
「そんなもんはありませんが、その症状で困っているのであれば治療します」とし、これらの症状が消失し、「患者の困る事」、「患者の不自由」、「患者の今まで散々飲んでいた薬」が無くなったとした場合、「困る」のは患者以外に誰だろうか。
仮にも、患者は症状が消失したとしても、自身に与えられた病名の利得を死守する為、病名剥奪によるデメリットを阻止する為に、詐病であれば幾らでも装う事は出来る。どうしても病名剥奪される事が、人生と言う大カテゴリで天秤に掛けた場合、デメリットが上回るのであれば、その方法なら幾らでも教える事は出来るだろう。別にそれは難しい事ではない。引き続き症状で困っている状態を伝えれば、それで済むからだ。しかしながら、ある一定層は症状消失の旨を掛かり付けに告げる事になる。
「そんなはずはない」
と言うのが彼ら彼女らにとっての多くの反応である。「良かったですね」と素直に喜べる人間は案外多くない。「そんなはずはない」とする理由と言うのも、彼ら彼女らにとっての「治す手段」と言うのが手術であれ薬物であれ、若しくは薬物を死ぬまで飲み続ける「治らない」と言う病態であり、病態であれ、他の治療手段で「治った」と言う事実が到底信じられないからである。
別にこれは代替医療と言う外的刺激に依存した治療手段だけの話ではない。栄養療法によって治っても同じ事が起きる。運動療法によって治っても同じ事が起きる。音楽を聴いて、綺麗な絵を見て、誰かの本に感銘を受けて、映画を観て、スポーツを観て治ったとしても同じ事が起きる。
彼ら彼女らにとっては他手段で「治してしまう」「治ってしまう」存在は非常に厄介な存在になるのである。散々小難しい論文を書き上げ、散々小難しい研究をし、数十億も数百億も予算を投じた薬物を用い、権威や権力を持つ人間が数十人と束になって掛かっても改善しなかった症状が、ステンレスの棒みたいなツールで治ってしまったとしたら、極めて異常事態であり緊急事態であり、自身らの長年に渡る研究を潰される前に、「治してしまう」存在を潰しに掛かったほうが楽なのである。
しかし、よくよく考えてみたらどうだいといつも思う事だが、自分らの権威を守りたいと言う気持ちはよく分かる。但し、そのプライドが患者の回復を邪魔をしているのも事実なのだ。症状に苦しむ患者の主体性を奪い、病名を充てがい不安にさせ、世間と同調を得られる為だと薬物を投与し、それが世間一般の物差しに合わせようと向精神薬と言う中枢神経系に影響を及ぼす薬物でコントロールしようとしたところで、一体、ドレだけの人間が助かり、無事に薬物を抜き、社会復帰出来ているだろうか。
改めて書くが、現医学には代替医療が穴埋めするような大衆疾患は治せない。こんな話は数十年前から分かりきっている事だ。しかしながら、患者層としては非常に厚い事も事実であり、これらの大衆疾患を有する患者層を現医学が取り込めば、彼ら彼女らにとってのビジネスも大いに盛り上がる事になるだろう。
とは言え、現実問題として如何なものだろうか。慢性疼痛には向精神薬を処方し、精神変調には向精神薬を処方し、適応疾患を拡大する為にと躍起になっているだけだ。そして改善自覚が得られなければ、現医学は精神異常者と言うレッテルを貼るに過ぎない。改善自覚が得られたとしても精神異常者だ。どの道、患者の行き場は其処で止まる。そして、そこに患者の回復は一切見当たらない。自分らの権威を守る為に、治す人間を潰しに掛かり、向精神薬の適応疾患を増やしているだけではないか。

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