藤原航太針灸院

痛み・痺れ・麻痺・自律神経症状の難治例の検証と臨床

「治る」「治す」という意識を高める

 

私たちの業界は「どうやって治すか(○○には○○筋、○○には○○ツボ)」という手段が先行しがちですが(真摯に身体考察を続けていけば、○○筋や筋膜に対してのアプローチ、ツボに意義を求める手段は極度に臨床的価値や意義が低値である意味が分かる)、「なぜ~ヶ月、~年と症状を出し続けているのか」を考察する事が本来の患者視点に立ち、大切な事なのではないでしょうか。何らかの症状を抱えている故に即時軽減を求める心理も非常に分かりますが、治癒を目的とするプラン下に於いては鎮痛手段を第一選択肢と置く治療手段は中長期的な患者未来を考察する限り、大きなリスクを患者に背負わせると共に、痛みという自己から発せられた理由を気づかぬまま打ち消してしまう意味にも直結します。既にアクシデントに苛まれた方々としか会うことがないですし、私たちの立ち位置上、求められる要素としてのファクターが大きいのは仕方ないのですが、私はそれ以前の問題をずっと考え続けています。「どうやって治すか」は、解剖生理の知識があれば構築出来ます。原因となる要素に対して針という存在がどのような生理的現象を引き起こすかを考察し、どのような機序を辿るかを考察すれば済むのです。侵襲性を鑑みれば針は最大の武器となり、様々な知見や手段を一蹴出来る程の優位性もあるでしょう。
 
そのような針治療の優位性は今後も構築し発展させていく事は大前提ではありますが、先ずはそれ以前に、患者に気付いてもらいたい事を気付いてもらう事が重要なのではないかと思います。重篤化した症状であればあるほど、知ってもらうだけではなく、患者自身に気付いてもらい実践してもらわなければ回復には至らない、至り難いという事です。術者と患者間で溝が深まる原因の1つに、術者側が真実を突き付ける事かもしれませんが、良かれ悪かれ今迄患者が取り入れてきた材料が回復に至っていない1つの因子である事も受けて止めてもらう必要性は高いのです。起きてしまったアクシデントは忌々しく患者に付き纏い、逃げようとすればする程、症状は強大化し広範化していきます。痛みこそ全てであり、痛みに逆らう事は出来ませんし、痛みに逆らう事は自己を否定し続ける行為でもあるのです。後述しますが、多くの方々は痛みに対して反発傾向を示した結果、長期間に渡りタチの悪い存在として心身にこびり付いて離れないのは、患者自身が自覚しているのではないでしょうか。私たちはそんなタチの悪い存在を抱えた、好きでもなく否応無しに追いやられた「患者」という方に対して何かを教える事が出来るでしょうか。症状悪化となるファクターを探求し続けた結果、私は1つの答えを出しました。
 
日常的に自然発症する諸症状に於いての対応策は、日常を変える事が回復への早道である事は分かりました。日常を変えられないからと薬に手を出した結果、自然治癒を遠のかせる事も分かりました。自然治癒が遠のけば日常のQOLは降下し続ける事も分かりました。且つ、薬物反応で生じる諸症状は日常的な自然発症と極めて類似性が高い為、判断を誤れば(判断を誤れれば)更なる薬物投与が生じる事も分かりました。日常的に易発症性の諸症状の由来は心身の許容範囲の超過によるものです。凡ゆる世界ではキャパを超えなければ成長性は成しえ難いかもしれませんが、キャパ低下の状態でキャパ超えをする事は難しく、その事に対して不可避であると諦めるか工夫をするかは個人に委ねられる問題でありますが、工夫しなければ心身から発せられる諸症状からの脱却は不可能であり、忌々しい存在は自身のみの問題だけでは済まない事も分かりました。累積的な負担は時として突発的に牙を剥くかもしれませんし、累積的な負担は軽度症状自覚という自己許諾が招いた結果、発症箇所の広範化及び他症状を引き起こす場合もあります。
 
知ってしまうから混乱する現実もあるかもしれませんし、知ってしまうから安心出来る現実もあるでしょう。しかし、何らかの症状が引き起こされた状態の心身というのは、既にその時点で混乱している心身下での考察であるという現実もある為、症状が引き起こされる前に既知しておかなければ選択を誤る結果にも繋がります。医療の世界も同じようなものではないでしょうか。日常的に転がっているような諸症状ほど、様々な知見が情報として転がっています。これは何を意味するのでしょうか。見方を変えれば何も分かっていないのと等しいのです。
 
人間という生き物は、自身の症状に対して反発する生き物です。抵抗を示す考えを持つ生き物である事が、この業界にいると分かります。極々身近な例を挙げてみましょう。腰が痛くて伸ばせない。伸ばせないけど伸ばそうとする。無理やり時間を掛けて伸ばしてみたら案外サッパリした。でも、暫くまた椅子に座っていたら立ち上がりで伸ばせなくなった。だからまた無理やり時間を掛けて伸ばしてみる。伸ばしきれば案外サッパリする。仰向けになれば気持ち良い。うつ伏せになれば気持ち良い。でも立ち上がる時は結局、伸びない。取り敢えず歩いてみる。歩いてみたら案外サッパリした。かと言って、一休みして立ち上がろうとしても易々と伸びる事はなかった。実はこのような事例、別に腰でも肩でも首でも膝でも何処でも構いませんが、何の解決策にも至っていない事が分かると思います。症状に対して反発しているだけであり、治癒の先延ばしである事が分かります。
 
人間には幸いにも自然治癒する機構が整っています。その機構に対し反発すればするだけ治癒までの道程は複雑化していきます。易損傷性の諸症状は誰にでも起きる可能性はあり、発症した際、如何様に対応するかが自然治癒の速度を上げる肝になります。改めて書きますが、損傷の度合いが回復の度合いを上回っていれば、症状は悪化している事を自覚します。損傷の度合いと回復が吊りあっていれば、同一程度の症状を呈し続けます。損傷の度合いよりも回復の度合いが上回っていれば、症状は改善している事を自覚出来ます。人間は自身から発せられる諸症状から逃避したい生き物ですが、早期回復を望むのであれば、症状に反発しない事が一番の近道になる事を知る事が出来ます。そのように考えると、巷に反乱する多くの健康獲得行為が無益である事に気付くばかりか、症状を現状抱えている人間にとっては憎悪リスクが高いという事を知る事も出来ます。「「サッパリする」と「治る」は違う」という説教じみた話はさて置き、何故、そのような思考を患者は携え、実行したのかを考察する必要性もあり、非常に回りくどいかもしれませんが、何で伸びない腰に対し、無理にでも伸ばそうとしたのか、伸びない腰を抱えた現状で、仰向けやうつ伏せ、そして姿勢を正して歩こう歩こうと頑張ったのかという根本的な患者思考を考察する必要性もあります。
 
各論的に述べればキリがありませんが、100のキャパのある人間が損傷した場合、キャパは低下します。仮に50に低下したとします。そのようにキャパが低下した人間は、50/100というキャパの中で労働や家事をしなければなりません。既に低下したキャパで動く以上、内外から生じる悪化因子に対しても既に易損傷性の状態である事が分かります。今までの天井が100の高さだとしたら、50の高さしかなくなるという事です。それを繰り返している内、50のキャパは30に低下するかもしれません。一度低下したキャパは、キャパ内で回復しようとしますが、100のキャパの時と同様の回復力、回復速度はありません。そのようになると、易損傷性はますます高くなると同時に、以前と同様の行動すら出来なくなるかもしれません。人は自身のキャパを超えなければ成長できないものかもしれませんが、30/100の状態で120/100のようなキャパ超えが出来るかと言うと難しいものです。身近に例えると、スポーツ障害や老化がわかりやすいでしょう。しかしながら、老化というのも既に老化した人で無ければ自覚し難い為に、他の例を挙げてみれば、極めて疲労した状態と、極めて心身が安定した状態と、同一量のアルコール摂取をした場合、どちらが翌日迄持ち越すでしょうか。極めて疲労した状態と、極めて心身が安定した状態では、どちらが風邪を引き易いでしょうか。
 
ここまで書けば、ある程度の対案というのも思案出来るのではないでしょうか。人間は生まれた時から死に向かう生き物です。その最大の疾患は老化であるのかもしれませんが、そのような老化に至る迄も様々なアクシデントが待ち受けています。そのアクシデントは心身だけの問題ではありませんが、人間は心身のアクシデントは最後にする生き物である事も分かります。家庭のアクシデント、仕事のアクシデント、スポーツのアクシデント、これらのアクシデントを乗り越えてから、自身の抱える心身のアクシデントに気付きます。見方を変えれば、家庭も仕事もスポーツも様々な外因要素が絡むアクシデントが無ければ自身のアクシデントも生じないという見方も出来ます。しかしながら、それは容易い事ではなく、恐らく回避し続ける事は出来ないかもしれません。勿論、このような様々なアクシデントを回避し続けようと努力した人間もいる事は知っていますが、このような様々なアクシデントを回避し続けようと努力する過程でもアクシデントは発生します。という事は、アクシデントは必ず発生し、大なり小なり自身の心身のアクシデントは生じ、それが肩凝り程度で済むか大病に発展するかは分かりませんが、結局はアクシデントに苛まれる事が不可避である事が分かります。 そして一番厄介なのが、自身の心身のアクシデントは他人任せにはできず、自身でしか乗り越えられないという事。自身の痛みは自分しか分かりません。そのように考えると恐怖に慄いてしまいそうですが、非情ながらも現実と言えば現実です。先ずは、ここの念を乗り越えなければ積極的な治療意識も生じないというのも現実なのかもしれません。
 
幾度となく書きますが、私たちは患者情報を元に治療を行うだけであり、患者情報が無ければ治療も出来ないという事です。患者の痛みを分かったかのように接する人間もいますが、言葉でなら何とでも言えます。そのような言葉でなら何とでも言える世界を、私たちの立場の人間が使うとオカルトになってしまいます。
 
さて、そのような中、吉報が届きましたのでアップします。私たちの業界はブラインドです。目に見えない痛みに対して対峙する以上、効果も作用も常に分散する傾向にあります。目に見えないからこそ、様々な知見や手段が考察されます。様々な知見や手段が考察される故に患者は混乱します。しかも、私たちの業界は理論を重視しない傾向がある為、確実性も再現性も低域にあるのが残念なところです。しかし、理論が無ければ回復は出来ませんし、確実性も再現性も極めて低い臨床に陥ってしまいます。故に私は理論を最重視しています 例) 【勉強会】
 
理論に既製品が追従出来ないのであれば理論に耐えられる道具を作れば良いだけであり、その為、私は2~3年前から特注の針を使っているのです。勿論、症状の発症時期や症状の度合い、患者の生活環境等々の多くのファクターが絡んでいますので、治療回数や回復期間というのは個体差も生まれますが、理論さえあれば幾らでも再現性も確実性も拡散性も望めますし、幾らでも応用と柔軟性も持つ事が出来るようになります。それが力価低減が生まれない針治療の強みですし、大胆な理論にも追従できる力を持っている為、実現が可能となるのです。そして、誰が治療しても同じ結果を出せるって大切な事です。かと言って、今が完璧かと問われれば完璧ではありません。常に自己否定の日々である事には変わらず、如何に早期回復を目論むかという議論に関しては尽きる事がないと思います。以下の青字が転載です。

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  ~針治療から病態定義の見直しを~