藤原航太針灸院

痛み・痺れ・麻痺・自律神経症状の難治例の検証と臨床

「病気」こそ、人を不安に陥れ、主体性を奪う


野田正彰著『うつに非ず―うつ病の真実と精神医療の罪』(講談社)を読んだ。
著者は精神科医だが、最近の精神医療の現状について、かなり踏み込んで徹底的に批判している。
これまで取り上げてきたことからすれば、全て当然過ぎるくらいのことだが、
しかし、ここまで踏み込んではっきりと指摘できる精神科医というのは、これまでいなかったと思う。
 
ことに「うつ」や「発達障害」など、安易に「病気」が作られ、
多量の投薬で人格が壊されていく問題をとりあげている。
その中で、「うつ」や「発達障害」は、本来「社会」の問題であるのに、
それを「精神疾患」の問題にすり替えることで、
済まそうとすることの本質的な問題を、はっきり指摘している。
そして、これを「執病化」と呼んでいる。
 
たとえば、「うつ」では、会社やその他の職場の、
何らかの「問題」を背負わされる者が、「うつ」として仕立てあげられることが多い。
最近では、会社のリストラ候補者や規律や方針に従わない学校の教師などが、
上司やまわりの者によって「うつ」に追い立てられ、
精神科の診療を促されるということが多く起きている。
 
また、学校で教師のいうことを聞かなかったり、
周りと同じ行動をとれない「不適応児」は、「発達障害」ということで、
精神疾患の問題にすり替えられ、精神科に預けられる。
 
しかし、実は、この「執病化」こそが、最近の精神医療だけでなく、
そもそも精神医学の問題の「全て」と言えるはずのものである。
つまり、そもそも、精神医学とは、そのような社会的に不都合な者または問題を、
「病気」の問題にすり替えることによって、「厄介払い」するためにこそ生まれたものである。
だから、最近の事情は、精神医学の本来の姿が、
むしろ、あからさまに覗かれる状況となっているということなのだ。
 
ただ、著者は(内因性の)「うつ病」そのものはあるという立場だし、
治療に向けて、あるべき精神医療は可能という立場のようで、
そこには、精神科医としての限界も感じる。
しかし、精神科医が敢えて社会の問題にまで踏み込んで、
率直に忌憚なく真っ当な見解を述べていることには、大きな意義を感じる。
 
このように、社会の問題に切り込まない限り、
精神の問題に何ら埒があかないことは、本来当然のことである。
だが、「精神医学」という専門的な学問が、医学の一分野としてあることになると、
「病気」という規定さえできてしまえば、それは、「精神医学」が扱う専門分野のようなみかけとなる。
「専門分野」だから、他の学問なり、素人なりは、口出しすべき問題ではなくなる。
 
それは、社会の問題から「精神医学」の問題に移され、他の身体医学上の「病気」と同じように、
「治療」の問題となる。そうして、「麻薬」まがいの人格を荒廃させる「精神薬」の投薬により、
問題は人ごと「塗りつぶされ」る。とはいえ、それは、もちろん何らの解決であるはずがないから、
むしろ、実際には問題を「拡大」させる。それは、実際「治療」の問題としても、
ますます困難をもたらし、膨らませているのである。
 
その意味では、「精神医学」なる「学問」ができてしまったこと、それが「医学」の一分野として、
「治療」の特権をもつものになってしまったことが、問題の大きな部分を占める。
そうすることによって、「問題」はますます見えないものとされ、
近づき難いものとされ、あるいは、忌避されるものとなってしまった。 
 
しかし、このように問題を糊塗し、あるいは膨らませるだけの存在が、
いつまでも、のうのうと存続できるというものでもない。
いずれは、そのような問題は何らかの形で表面化せざるを得ないし、
多くの者も目をつぶることはできなくなってくる。
「うつ」や「発達障害」(今や「統合失調症」もそうと言えるが)が、誰にでもあてはまる「病気」であることが、
誰にも(少なくとも薄々は)感じ取られるものであることも、そのようなことを助長する。
 
このまま厄介事の「執病化」が押し広げられていけば、
誰もが、いつ精神疾患と規定され、投薬を受けて、人格を崩壊されるか、分からない状況となる。
まさに「魔女狩り」の止めのない拡大と同じことになるのだ。
 
そのような状況において、
精神科医」がその学問の内部や専門家意識で(たとえ、でしゃばらない抑制的な意味でも)
何かを語っていても、それは本来の問題には決して届くことがない。
問題の「糊塗」にますます資するだけである。
だから、著者のように「病気」ということ自体が、社会の問題であることを正面から認め、
そこに踏み込んで発言していくことは貴重な一歩である。
 
しかし著者も言っているいるように、
特に日本では脳科学的な知見しかもたない精神科医が育てられ、
臨床的な経験や能力のない精神科医のみがのさばることになる。
つまり、そのような医師は社会的な問題に切り込むような能力は、もともと欠いているのである。
 
これまでにも、さまざまな問題が取り沙汰されていたにも拘わらず、
ここまで投薬の問題に気づくことなく、疑問ももつことなく
(恐らく、意図的または半意図的な場合もかなりあるのだろうが)
投薬し続けるという事実には驚くべきものがある。が、それも要するに、
そのような精神科医の、社会的感覚の欠如、無知、無能のなせる技としか言いようがない。
 
もはや、精神医学の内部で何かしら問題の解決はおろか、
善処を期待できるような事情にはない、と言うべきである。
だから事態を重くみて、改革を図りたい(数少ない)精神科医は、
もはや内部に止まらず、社会に踏み出して社会の問題として訴えかけて行くしかない。
 
但し、それは突き詰めれば、必ず「精神医学」そのものが不要なのではないか、
という論点に行き着いてしまう可能性をはらんでいる。
だからこそ、これまで多くの精神科医控え目で中途半端な批判をすることはあっても、
そこまでは踏み込むことはできなかったのである。
しかし、そのようなこと(精神医学の存続意義)も含めて、
もはや全体を正面から社会に問うしか、方途はない状況のはずである。
 
もちろん、このことは逆から言えば、社会自体が、
この問題を「精神医学」に「丸投げ」し、自ら取り扱うことを「忌避」してきたことの問題ということである。
 
『うつに非ず』では、「うつ」や「発達障害」に関して、「執病化」ということを言っていた。
そこでは「統合失調」に関しては何も述べられていない。
が、もちろん、「統合失調」にもそれは当てはまる。
そもそも、精神医学は社会の問題を精神医療の問題にすり替えて処理する、
「執病化」に始まるのだから当然である。
 
一般には「医療化」と言った方がいいかもしれない。このことは次のような図で簡単に示すことができる。
http://tiem.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2013/11/05/photo.gif
これまでにも何度も述べてきたことだから、説明の要はないだろう。
「統合失調」のみをあげているが、それは当初から精神医学が扱う「精神的な病」の代表であり、
「医療化」のターゲットそのものだったからである。
いかに「統合失調的な状況」にある、社会から逸脱する者を社会から「排除」して、
「治療」の名目のもとに「病院」に回収して、管理、処分していくかということ。
それこそが、「精神医学」の役割である。
 
そこから、さまざまな精神的な「病」が拡大、発展してきて、「うつ」や「発達障害」の問題も出てきた。
が、これら「統合失調」ほど「逸脱的」でないものは、本来図で「例外」と示された、
「回復」の方へと回されることが多いようにも思える。
 
しかし最近の事情は「うつ」や「発達障害」、さらにその他の「病」にしても、
より「排除」の方へと方向づけられているようにみえる。
「治療」や「投薬」は、むしろ、「病」をより深刻化し、人格を崩壊させ、
社会への復帰を難しくする方向に働いている。
あるいは、端的に、「治療」や「投薬」こそが、回復困難な「病気」を作り出している。
 
それは、本来「精神医学」が「統合失調」に対して行おうとした「医療化」に、
より近づいているということである。「精神医学」のもともとの「医療化」のあり様が、
よりあからさまに現れ出ているのである。
だから、図では「統合失調」に代表させて表わしたが、
このことは、あらゆる精神的な「病」にも十分あてはまることのはずである。
 
大雑把に30年ほど前は、「支配層」と結びついている産業といえば、まず「軍需産業」だった。
冷戦期でもあり、国家の多額の資金を投入され、高度な重科学技術とも結びついた、
いかにも華やかな巨大産業だった。
軍産複合体」として一産業レベルを越えた巨大な力を発揮した。
 
次には、「石油メジャー」だった。
石油は、個人の生活から産業社会を支えるエネルギー資源として、不可欠かつ重要なものだった。
これを牛耳るものが経済を牛耳るとも言われた。
原発が普及することによって以前ほどの力は失ったとしても、
巨大な影響を与え続ける一大産業であることに変わりはなかった。
 
また、いくらか後には「穀物メジャー」がそういうものとして注目された。
穀物は、当然ながら食べなければ生きていけない不可欠の食料であり、
人間の健康にかかわるという意味でも重要な影響力をもっている。
初め、メジャーが流通を支配することが注目されたが、
バイオ技術の発展により、製造業も一大巨大産業と化した。
 
それらに対して「精神医学」はと言うと、当時は如何にも地味で光の当たらない「業種」だった。
精神病院とは、要するに「頭のおかしい」人を隔離しておくための(恐ろしい)施設だった。
人里離れたところに、ひっそりと建っていた。
子供の頃から子供心にも、精神病院とはそのようなものだと思っていたし、周りもそうだった。
そもそも、精神医学なるものが表に取り沙汰されることなどめったになかった。
 
「製薬会社」も既に重要な産業として台頭はしていただろうが、
特に注目されるようなものではなく、比較的地味な産業に過ぎなかった。
精神疾患」に関しては、そもそもまだ、薬物治療が中心的なものとして行き渡ってもいなかった。
「精神病院」は、いかにも「権力的」で「恐ろしい」ところではあるが、地味で日蔭の存在である。
それが「支配層」と結びついているなどいう発想は、無いに等しかった。
 
しかし考えてみれば
「支配層」の側にしてみると、「精神医学」に目をつけずして一体何に目をつけるのだという話になるのである。
何せ、「精神科医」とは、人の脳または精神を、直接「いじっ」て、変えることの許される唯一の職種なのである。誰も、他人に自分の脳や精神をいじられたいとは思わないだろう。
それが、正当な業務行為として、ときに強制的なやり方で許されるのである。
 
また、これは「製薬会社」の技術力の発展によって、精神薬が普及したことにこそよるが、
「麻薬」まがいの脳と精神に大きな影響を与える薬物を、自在に投与することのできる職種なのである。
いわば、「人を生かすも殺すも」自由な職種である。
こんな「薬物」は一般には規制され、一部では商売とマインドコントロールのために使用されている。
それを、合法的に正々堂々と投与することのできる唯一の職種なのである。
「製薬会社」も勿論、このような薬物をさまさまな視点から研究し、開発し、大量生産し、
提供することのできる巨大産業である。
 
人を「支配」するうえで、これ以上に「使える」ものはない、というほどの代物なのである。
もちろん、これらには軍需産業のような華やかさはないし、
相変わらず地味で表にのぼりにくい産業ではある。
また、これらは所詮「病気」に関わるものであり、一般的な産業基盤ではないともいえよう。
 
しかし、「病気」こそ、人を不安に陥れ、主体性を奪うまたとない機会なのである。
 
つまり、それを拡大して多くの者に適用することさえできれば、
「支配」という意図には十分過ぎるほど沿うものである。
また、地味であまり人の注目にのぼらないということは、
むしろ利用するうえで都合のよいことである。
 
そこに働きかけ、力を及ぼすことも表ざたにはなりにくく、まさに「やりたい放題」の基盤となるからである。
但し、このように「支配層」の力が及ぼされるとは、
「表立って」、より権力的で、暴力的なあり方を示すようになるなどど勘違いしてはいけない。
むしろ「彼ら」は、イメージ戦略としてより「よい」もののように見せかけて、
いつのまにか浸透させる術に長けている。
資金力も豊富で、メディアなどを巻き込んで、洗脳効果をうまく使う。
 
たとえば、ロックフェラーにしてもビル・ゲイツにしても、
表向きの、慈善活動家としてのイメージ作りは見事である。
それだけのノウハウがあり、そのようなものを築き上げるだけの、豊富な資金力もある。
「支配層」も、そのようなノウハウを使って、かつての「精神医学」または「精神医療」の、
「暗く」「陰湿」なイメージを大幅に変更し、人びとが近づきやすいものにすることに、
概ね成功したのだと言える。さらに、「精神疾患」という、「不治」なるイメージをも変更しつつ、
それを拡大して、多くの者に広めることに成功したのだと言える。
 
少なくとも、かつての「精神病院」の「頭のおかしい人を隔離しておく(恐ろしい)施設」というイメージは、
ほとんど払拭された。精神科は、文字通り「病気を治療してくれる専門家」というイメージとなった。
「病気」を治療してくれる「薬」というイメージが、その媒介となり、
精神科の領域にも大した違和感もなく入り込むようになった。
 
かつての、いかにも汚く陰湿な精神病院は、きれいで近代的な作りのクリニックに変わった。
「うつは心の風邪」のようなキャッチフレーズが多く作られ、精神科を庶民の近づきやすいものにした。
国はもちろん、学校や地域などにも働きかけ、
多くの者を、「精神科」につなけげることを促すシステムを作り上げた。
 
精神科医も、ほとんどマニュアル化された、そのようなシステムにのっかるしかない事態になった。
というよりも、そのようなマニュアルによってこそ、育てられるようになった。
薄々事態に気づきつつ、あるいはそうと知りつつ、自らの儲けのため、意識的、半意識的に、
このようなシステムを利用している者もかなりいるだろう。
 
しかし、まだかなりの数の精神科医が、このようなシステムに気づくこともなく、
能天気に乗っかり続け、あるいは薄々気づきつつも、もはやどうすることもできずにいるのだと思う。
何しろ、かつてのイメージからすれば、驚くような転換を成し遂げたのであり、それはそれで、
見事と言わざるを得ない面がある。しかし、それらの「イメージ」は、あくまで「表向き」のことである。
実際に起こっていることと言えば、かつてと相も変わらず、「暴力的」な事態であるのは、明白である。
 
精神薬により、病気はより深刻化し、回復困難になる。
あるいは、精神薬による「導入」によってこそ、本当に困難な「病気」が作られていく。
「病気」のせいにされつつ、衝動的自殺や暴力など、社会的にも、多くの混乱や問題が巻き起こされる。
「支配層」が力づけする以上、それは当然の結果なのである。つまり、もともとの精神医学のあり様と、
実質的には何も変わっていないばかりか、むしろそれが肥大化し、拡大されているのである。
 
そのようなことは、初めから明確に「意図」されていたことと言わねばならない。
かつての、あからさまな排除と権力のあり方は、さすがに変わらざるを得なくなったのだろうと思っていた。
薬も、新しいものは、より副作用が少なくなるのが自然のことだと思っていた。
しかし、これらは本当に「表向き」のことでしかない。
 
ただ、私は基本的には、かつての「精神医療」のイメージを持ち続けていたし、
それらが払拭されるなどということはあり得なかった。
しかし、昔のイメージをあまりもたない、
最近の若い人たちが、こういった医療に「騙される」のも、理解はできるというものである。
 
「精神医学」という、人の通常問題としない日蔭の職種こそ、
これまでのどのような「派手」な産業にもまして、
「支配層」が支配力を貫徹できる格好の道具だったのである。
 
「精神薬」についても麻薬などとも絡めて、知れば知るほど、
これほど人を支配するのに適した物質はないということが分かる。

http://tiem.cocolog-nifty.com/blog/より転載及び抜粋。

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