藤原航太針灸院

痛み・痺れ・麻痺・自律神経症状の難治例の検証と臨床

Q,攻下派って何て読むのですか?

A、「こうげは」と読みます。
 
以下は全てコピペで恐縮ですが、説明下手な私が説明するよりは良いでしょう(笑)
 

一、張子和について

 いわゆる攻下派の始祖とされ、『儒門事親』の著者である張子和は、劉完素(河間)・朱震亨(丹渓)・李杲(東垣)らと共に金元の四大家に並び称されている。

 

 その伝は『金史』本伝や元・劉祁の『帰潜志』、明・李濂の『医史』などに見え、また元版『儒門事親』の張頤斎序や『四庫全書提要』にも関連の記述がある。相互に齟齬する点もあるが、いまそれらを整理すると以下のようである。

 張子和の初名は従正、字を戴人(一説に号)、子和は後の名である。出身は{目+隹}州の考城(今の河南省蘭考県)で、戴人と称したのは考城が春秋時代の戴国であることに因む。後に陳州の宛丘(今の河南省{目+隹}陽県)に移り住み、晩年までここで生活していたと思われ、それで宛丘と称されることもある。

 

 彼の性格は放胆で威儀がなく、頗る書を読み、詩を作り、酒を嗜んだ。医術は十数歳頃より父に就いて学び、劉従益(『帰潜志』に子和の伝を記した劉祁の父)の門に遊学の後、金の興定年間(一二一七~一二二一)に召されて太医を任じた。しかしその攻撃的治療と性格のためか太医院内外で誹謗に遇い、間もなく太医を辞して宛丘の蔡河付近に住み、麻知幾(徴君、九疇)や常仲明(用晦)と交遊を結ぶこととなる。

  
 そして彼らと日々医術の奥義を論議し、これを当時すでに文名のあった麻知幾が協力して一書となし、『儒門事親』と名付けた。その謂は、儒のみが医理を明弁し、医を以て親に事(仕)えることである。他方、常仲明は子和の遺論を集めて『治法心要』を作った、という。
 さて以上の伝と記述には、子和の具体的生没年や活躍年が記されていない。ただし『儒門事親』や彼の遺した「七言絶句四首」(嘉靖版の末尾に附)等の記載により、太医を任じた期間はおよそ一二一九年の前後。『儒門事親』の内容が記されたのは約一二一〇~一二二八年の間。生年は金の貞元四年(一一五六)頃。没年は金の正大五年(一二二八)頃で、享年は約七十二と推定されている。

 

 張子和の医名は太医を辞任した後も東州(東都の{抃-才+サンズイ}京、今の河南省開封)に鳴りわたったとされるが、晩年の生活は恵まれなかったらしい。それは彼の「七言絶句四首」中に、「而今憔悴西山下。更比文章不値銭」や「歯豁頭童六十三。迩来衰病百無堪。旧游馬上行人老。不是当初過汝南(今の河南省汝南県)」などの句が見え、病と貧しさの中で過去の栄耀を追憶する心情を赤裸々に吐露していることより窺える。

 

 張子和の医説は『素問』や『傷寒論』などの記載を根拠に、劉完素の所説を発展させ、寒凉剤を応用することにある。そして汗・吐・下の三法で、邪を攻撃する治療を特徴とする。例えば『儒門事親』巻一の立諸時気解利禁忌式に、彼は劉完素流の辛凉剤を四十余年用いた結果、傷寒・温熱・中暑・伏熱などを数えきれぬほど治したと豪語するなど、その運用によほどたけていたらしい。

 

 その一方、巻二の推原補法利害非軽説に「養生当論食補。治病当論薬攻」と主張するごとく、いわゆる温補剤による補法の弊害も強く唱えた。これは当時広く流行した『和剤局方』の影響に対する反発であり、彼が私淑する劉完素の医説にも同様の背景がある。そして薬補を否定する代わりに、邪を攻めて駆逐されると元気は自ずから回復する、という見解を提起している。

 

 これらの医説は後代に強い影響を与えた。例えば温病学派の一人で、『温疫論』(一六四二)を著した呉有性(又可)が、治療の急務は去邪にあり汗・吐・下の三法を主とすること。『血証論』(一八八四)の著者・唐宗海(容川)が、{ヤマイダレ+於}血を攻下すると新血は生じ、血虚を補えると主張して多くの駆{ヤマイダレ+於}血剤を創方したことなどは、いずれも張子和の医説の発展といよう。

 

 他方わが国では、曲直瀬玄朔門下の饗庭東庵(一六一五~一六七三)やその門下の味岡三伯などが劉完素・張子和の医説を奉じ、ために劉張派・後世家別派などと呼ばれている。また吉益東洞が温補剤を多用する当時の後世方派に反対し、駆梅療法もあって攻撃的治療を提唱した背景には、張子和の影響が十分に考えられる。ただし子和が『儒門事親』巻二の凡在下者皆可下式に、「鳴呼。人之死者。豈為命乎。…如此死者。医殺之耳」と述べて当時の天命論に反対したのに対し、東洞は『医断』などで「死生は命なり、天より之を作す。医も之を救うこと能わず」と天命論を唱えた点で大いに異なる。

 
 しかしながら張子和の攻下の主張は過激で、度を過ごした論も多々見え、これへの反論も少なくない。例えば朱丹渓は『格致余論』巻二の張子和攻撃注論で、子和の論理的矛盾と短絡を厳しく指摘する。また呂元膺は「張子和の医術は老将の敵に対するが如く、或いは背水の陣を布き、或いは河を済って舟を焚き、死地に活路を求めるもの、効なきときは即ち潰滅するのみ」、とまで評している。
 
~日本で攻下派の意を継いでいる有名な方は、吉益東洞ではないでしょうか。
現在に於いても代々医業をなさっております~
 
二、吉益東洞について
 
 元禄15年2月5日(1702年3月3日)- 安永2年9月25日1773年11月9日))は、安芸国山口町(現在の広島市中区橋本町付近)出身の漢方医で、古方派を代表する医であり、日本近代医学中興の祖である。
 
 名は為則、通称は周助。はじめ東庵と号し、のち東洞。
 
 『傷寒論』を重視するが、その中の陰陽五行説さえも後世の竄入とみなし、観念論として排した。30歳の頃「万病は唯一毒、衆薬は皆毒物なり。毒を似て毒を攻む。毒去って体佳なり」と万病一毒説を唱え、すべての病気がひとつの毒に由来するとし、当時の医学界を驚愕させた。この毒を制するため、強い作用をもつ峻剤を用いる攻撃的な治療を行った。
 
 東洞の医説の主軸となるものは、「万病一毒説」と「眼に見えぬものは言わぬ」の二つの柱である。
 
 万病一毒説は、生体になんらかの理由で後天的に生じた毒が疾病の原因であり、この毒を毒薬で攻めて駆除すれば外邪も侵入することができないといい、毒を去ることが万病を根治する必須条件であるとした。
 
 また、東洞は眼に見えるもの、手でつかむことのできるものでなければ相手にしないという実証主義に立っていたから、この体内の毒も、眼で見、手でふれるものでなければならないのである。そこで、体内に毒があれば、その証拠が体表に現われ、その多くは腹診によって確かめることができるとした。これにより、傷寒論系の腹診が発達をとげた。
 後の呉秀三富士川游はこの考え方を近代的で西洋医学に通じるものと高く評価した。
 
 著書には当時のベストセラーとなった『類聚方』、『薬徴』、『薬断』などがあり、『東洞門人録』によると門弟も546名を数え、後世の漢方医学に与えた影響は絶大である。ほとんどの著作を『東洞全集』(呉秀三編.思文閣)や『吉益東洞大全集』(小川新校閲、横田観風監修。たにぐち書店)にみる事が出来る。
息子の吉益南涯漢方医として著名で華岡青洲は弟子。
 
 全ての疑問と矛盾と怒りを解き、漢方に力を注ぎ込め。命掛けで病を追い出す事が我が使命であり。
 
 
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