藤原航太針灸院

痛み・痺れ・麻痺・自律神経症状の難治例の検証と臨床

基礎と臨床と思想のマッチング2


症状の改善プロセスから筋細胞の弛緩を直接的に標榜した処置を除外して考察し、暫く経つ。安全性を確保出来る番手であれば太い針は要らない事に気付く。今じゃ2番と3番程度がメイン。昔は10番だったか。幾ら凝った筋細胞を弛緩させようと太い針を使おうが意味がない。筋細胞の栄養供給が不全状態に陥ったのは、当該筋細胞が原因ではないのだから、今になって考えれば至極当たり前の事だった事に気付く。
鎮痛作用を求むなら疼痛部位への強刺激で良く。それであれば経皮的なパルスでも強揉みでも構わない訳で、そのような手段は個人的に治療では無く破壊の世界に入る。鎮痛作用で重篤疾患がマスキングされる可能性もある事が一大事であり、それは患者にとっては不幸な事。確かに、筋細胞を如何なる番手でアプローチしたとしても、弛緩は得られる。但し、弛緩を得る事が大切な事ではなく、弛緩を得続ける事が大切な事。そうでなければ、(抹消)神経症状も自律神経症状も中枢神経系症状も、仮にも不適応疾患にも対応出来ないと言うのも分かる。

故に、患者自覚の疼痛発症箇所が仮にも筋腹や筋腱移行部、謂わば筋膜、各種関節領域で発生していたとしても、参考までに聴取する事はあっても、多くの非外傷性疾患が層を占める、若しくは患者自覚が外傷性疾患からの派生要因だと認知していたとしても、それは臨床上、然程無関係となる。かと言って、では処置部位を血管に求む訳ではないし、リンパに求む訳でもない。針は、そのようなツールではない。術者サイドにとっては無関係かもしれないが、患者サイドにとっては無関係ではない為、ここで臨床性での観点ではなく、思考性のズレが生じる大きなファクターとなるのだが、まぁこの辺りは既に多くの患者が疼痛発症箇所にTrpブロックを受療しても改善自覚を得ていない過去もある為、理解は早いのかもしれない。
その為、鎮痛と治癒を履き違えている場合、若しくは疼痛発症箇所にアプローチされる事が治療だと思っている場合、若しくは既存の病態定義を信じている場合、若しくはTrpブロックでは改善自覚がなくても、針と言うツールでTrp様手段を用いたら改善するのではと言う思考がある場合、多くは治療失敗の原因ともなる。ここで改めて考察すれば、此処までは、あくまで治療と言うカテゴリでなく、単に術者と患者の思考性のズレで生じているに過ぎない。勿論、過去の医療機関での検査から診断に至る迄のプロセスすら私は信用していない。全ては治療反応性から考察出来るツールを持っていなければならない。症状も長期に渡れば単独でのクラッシュ例は稀であり、その多くはオーバーラップしている為、仮にも純粋な整形領域的疾患とて、神経学的検査なぞ何の役にも立たない。

全ての患者が、仮にも一回の治療で中長期的な症状改善自覚を得られ、社会復帰する訳ではないが、治療に対しての反応性の部分でのヒアリングは極めて大切な事項にもなる。極めて重症度の高い症例であれど、その多くは反応を示す。中には全く示さない場合もある。これは患者自身の観察度合い、評価度合い、性格の問題にも帰結してくる為、この限りとは言い難く、且つ、症状改善自覚を得たと虚偽の反応を示す場合もある。これらも全て含めて考慮しなければならないのかもしれないが、取り敢えずはこれらの主観的、感覚的印象に関しては信頼をしていると言う前提で話を進めれば、
多くの適応性疾患に関しては、それが仮にも足を付けない程の症例でも反応はある。勿論、受療時のタイミングと言うのもあるかもしれない。急性憎悪期等々に関しては、何をやってもダメな場合もあるだろう。何をやっても、と言うのは、凡ゆる治療手段よりも、安静が一番のメリットを示す症例もあるかもしれない。それらも全て含めて考察したとしても、要は何を言いたいかと言うと、過去の受療機関で得た経験や知識、若しくは知恵等々の患者背景に、更に現状の症状が覆い被さるように構成されている段階に於いては、患者自身に対して何かを積極的に求める事は難しいと言う判断を、術者側が理解しなければならず、神経を磨り減らし、凡ゆる状況から患者の自由を奪う事は、酷な事でもある。
理想論で言えば、一般的には、それが生活指導と言うカテゴリとなり、生活時の姿勢や動作、家庭内に配置されている椅子から寝具等など、凡ゆる物が指導対象となり、キリがない。言うのは楽だが、実行する側(患者)は面倒臭い。面倒臭い事はしたくないのは、誰しも共通している事である。確かに私も以前はそうだった。現状の症状からの早期脱却を目指す為には、発症起因となる日常を変える事が一番の理想でもある事だが、患者にとっては、身近な環境を変えるほど、苦痛な事はない。大方は様々な事情もあり、出来る事でもない。その多くは薬とアイスクリームを求めている。それで治る事はないのだが、何故、薬とアイスクリームを求めるのかも考えなければならない。
それは、面倒臭くないからに過ぎない。リスクとベネフィットの話は抜きにして、これらは敷居が低いから受けいられている側面もあり、これらに対して反論的要素を述べるのは、少し違うのではないかと言う感覚も少々ある。それならば、針治療と言うツールを、薬とアイスクリーム以上の存在とする事が責務なのではないかと考えるべきなのではないだろうかと最近思う。かと言って、別に針治療に対しては何の価値も要らないと思う。術者が自身の治療内容や治効理論に価値を付けようとすると、そこで止まる。大切な事は針治療の価値でもなく、それに付随する治療内容や治効理論ではなく、患者が治る事に重きを置いてみれば、別に治療手段は針治療でなくても良い事を知る。
只単に、様々な手段を精査した上で、針治療以上のツールが存在しないと言うだけに過ぎず、それが凄いと言う訳でもない。治療に自己満足は禁物だし、治療意志の無い人間に無理をさせるのも良くない。信じられないかもしれないが、世の中には治りたくない人間も少なからず存在し、自身の痛みが生きている価値とする人間もいる。それならば、それで良いのかもしれない。治療対象者と言うのは、自己の意識下に於いて症状軽減を求み、且つ自身の生活動線内で不便に陥っている人であり、それが足腰が悪いから、首肩が悪いからと言って、その事自体が治療対象になる訳でもない。

その為、半強制的にチェックをし、医療機関での精査を持ちかけたり、精神医療に繋げては薬物投与がされたり、人の性格や行動変容が、世間一般での物差しから著しく逸脱していたりと物差しの真ん中にいるエライ人間が判断した場合、足を引っ張ったり手を引っ張ったりして、物差しの真ん中に持ってこようとする。但し、ストレスはカウンセリングで、感情は薬物で、ドレだけの人間が救われたのかを鑑みれば、極めて厳しい状態である事は否めないと思う。
仮にも、それが直接的にも間接的にも、患者に対して薬物投与をさせた場合、極端な話だが、その患者に対して死ぬまで責任を持って接し続ける事が出来る人間はいるだろうか。恐らくいないと思う。仮にも死ぬまで面倒を見れないのであれば、薬物投与はさせるべきではないが、昨今の早期発見早期治療と言うフレーズに感化され、さっさと薬漬けと言う状態に陥っている患者群等、この流れだけは軽視出来ない側面もある。とは言え、その多くが薬漬けになってから気付き、手術を2~3度してから気付き、ここを由来とした凡ゆる医原性に気付いてから初めて回復に向けてスタートを切っている現状を踏まえてみれば、それもこれも何もかも、針治療と言うツールから派生するパワー不足であり、現況を覆せていない証拠であるのは事実である。
そこを見越したかのように、代替医療の多くは、現医学が既に無力な症状に対して絞っているかのようにも見受けられ、且つ、患者サイドの理解が悪い意味で得られやすい分野に絞り、治らなくても当たり前である疾患分野に絞っている側面もないだろうか。それは、考え方によっては逃げの証拠でもあある。恐らく、多くは過去に向かっていった時もあったかもしれない。しかし、余りにも大きなパワーに負けてしまい、別な道を選択せざるを得なくなったのかもしれない。とは言え、よくよく考えてみれば、仮にも現医学が力を発揮している分野は救急救命であり感染症であり、産科である事には今も昔も変わらない。

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  ~針治療から病態定義の見直しを~