藤原航太針灸院

痛み・痺れ・麻痺・自律神経症状の難治例の検証と臨床

精神症状と言う捉え方


精神症状が身体的処置で症状が改善するのだとしたら、それは精神症状と呼称する事は行ってはならない事だが、その逆も然り、昨今の凡ゆる身体的な機能性疼痛の処置の1つにベンゾ系や抗うつ薬が処方されるようになり久しい。
勿論、精神症状に対しても同様。更に自律神経系症状に対しても同様。結局、医療機関を通して中長期に渡り症状を訴えれば、必ず付いて回るのが向精神薬の存在であり、場合によって初診から積極的に処方されているケースも少なくない。かと言って、それに対して私は批判も否定もしない。昔はしていたかもしれないが、最近は考え方も流石に変化してきた。変化してきたと言うか、この段階での批判的見方や否定的見方は既に面倒臭いと言う感覚でもある。
向精神薬の有害性や危険性が此れほど迄に広がり、薬物治療に対して嫌悪感を示す患者層も増えてきた事から、徐々にではあるが時代も変革してきている事も実感する。さて、それでも尚、情報収集能力とし乏しい年齢層と言うのも存在する。その多くは高齢層である。これが、若年層の家族が情報を伝達してくれたり、仮に別住まいだとしても、情報を伝達してくれるなら別だが、全てが全て、このような情報が回る事などない。
飲んで楽になるなら飲む。単にそれは本能的行為かもしれない。おクスリが今のように簡単に手に入らない時代を過ごしてきた方々にとっては、1割負担程度で好きなだけ貰えるおクスリは正に宝物のような価値を持っている人も少なくない。
さて、そのような層も何れ気付いてくれる事を願いながら、取り敢えずは治療を通してステータスを高めなければならない治療サイドとしては、現行の凡ゆる諸症状に対応出来る術と思考性を持つ必要がある。
冒頭で書いた精神的症状に関しての現医学での処置は向精神薬の処方であり、感情を強制的にコントロールする事になる。強制的にコントロールされるゆえ、それが時代によっては廃止されたロボトミーに続くクロルプロマジンから現在に至るまで、精神医学的視点な疾患論から考察してみても、単なる支配医学である事には今も変わらないし、モノアミン仮説等々も否定されて乏しいが、今現在とて多くの医療機関では採用されている説であり、その仮説に基づいた処方であるし、
精神医学を親分とした子分達も、子分の手下も云う事を聞かなければ、自身の能力の未熟さを露呈するかのように、精神医療に繋げては薬漬けにさせる事を推奨している。それが今の時代である。特に公民問わず、企業勤めの方々は大変だと思う。ストレスチェックだの何だの、向精神薬推奨派の上司だの、何でもかんでも勝手に病名を付けては遊んでいる同僚だの、やっている事はコドモと同じである。
さて、これらの方々も既に集団心理で強くなった感覚となり、1人の人間をからかっているだけの存在であるが故に、何れは良い死に方は無いと願いつつ、そのような、それが医療機関によるレッテル貼りでも、上司や同僚、家族や友達によるレッテル貼りでも構わないが、そのレッテルを貼られた人間と言うのは、当たり前だが心に傷を持つ事になり、場合によっては精神症状や自律神経症状を発症するケースもある。
後述するが、ここで一度改めておきたいところが、個人的には自律神経症状のカテゴリに精神症状は含まれているし、含まれるべきだと臨床現場を通して確信している。但し、一度これを切り離して記載する事は、多くの人間は、いわゆる「うつ病」や「適応障害」や「パニック障害」や「社会不安性障害」や「発達障害」等々の症状は、自律神経症状「外」として一般的には捉えられているからである。
では、仮にもこれらの精神症状が身体的処置で症状が改善されたとしたら、それは精神症状は「精神の問題ではない」と言う根拠にもなる。多方はそれを否定するだろう。精神医学と精神医療を守る人間も多く存在し、現段階で向精神薬に恩恵を受けている層と言うのも少なくない事から、この発言に対しても否定論を出すとも思う。そして勿論、治療の医学とは確証性や信頼性が低いのは私も十分に既知している事から、下手に症例は出すこともないし、治効理論も書く事はない。別にそんなに難しい話ではないし、自分の治療院への呼び水的な記載は一切したくないタチでもあるからだ。
しかしながら、仮にもそれが事実だとしたら、「精神の問題とし」、「脳の神経伝達物質の問題とし」、仮にも光トポグラフィー等を初めとした、凡ゆる検査機器や検査手段、それに基づく診断から処方と言うのを否定出来る事にもなり、根拠の無い手段である事が露呈される。そして、露呈されなければならないとも思っている。
医療は確かに失敗の繰り返しで発展してきた。トライアル&エラーで今に至っている事だけは私自身も身に染みている事から否定出来る立場ではないが、脳内の伝達物質を強制的に変化させる手段で、感情のコントロールは「出来ない」事だけは散々見てきたつもりだし、これらの薬物を服薬する事により、仮説が本説となる、それは本当の「病人」に片足以上突っ込む事になる。
その歴史が数十年と繰り返されても困った事に守り続けられている自体がおかしい事なのかもしれないが、それは、現に薬物を服薬する事で鎮静され、若しくは多幸感を得られ、誰にも負けないような強靭な精神を得られ、2晩3晩と寝ずに勉強出来るほど脳が冴え、騒ぐ子どもを抑え付け、ミスを繰り返すオトナを集中させ、尻込みする兵隊を奮起させ、暴れる犯罪者を眠らせ、と言うように、この薬物は「医療関係者と患者」と言う枠を超えた使い方をされている以上、極めて悪い意味で、メリットを感じ取る事が出来ていた歴史があるからだろう。
此れほど迄に、使い道が限定されずに蔓延した向精神薬や精神医療に関しては、何処かで歯止めを効かせなければならない。先ずは、自分らにとって身近な存在からである。犯罪者の鎮静や救急救命時や、大手術の術前術後や、ターミナルケアならいざ知らず、最早誰でもアリな処方状況に陥っている。
その誰でもから先ずは処置していく必要性があるだろう。それには、大きな憤りと共に前に進む事になるのかもしれないが、それでも尚、整形外科、内科、耳鼻科、循環器科脳神経外科、そして心療内科、精神科等、凡ゆる医科で漫然と処方されている現実だけはあり、もしかしたら現在は服薬しておらずとも、今後、何かしかの症状に悩んだ場合、誰でも処方される可能性は秘めている。それを未然に防ぐには、症状を改善させる術を持たなければ、幾ら訴えても、それは暖簾に腕押しである。

眠剤1錠抜くとか、そのような生温い症例も少なく、多くは外的環境を伴い経時経年による増量傾向からの脱却である以上、常に原因となる外的因子は「存在したまま」、患者自身は自己が抱える症状と対峙しつつ日々を過ごす事にもなる。
これらの事象は純粋な整形外科的疾患でも言える事かもしれないが、仮にも整形領域疾患であれば、日々のストレスは身体的(肉体的)ストレスが比重を占めてくる為、仮にも症状の軽重や寛解憎悪で精神的ストレスが生じたとしても、極端な重症例で無い場合、精神衛生は保たれるケースが多い。
それも1つに、身体的な機能性疼痛であれば、患者自身も過去に抱え、自然軽快した背景を持っているかもしれないし、患者周囲も同様な痛みを抱えた人間も少なくなく、気持ちを共有出来るケースも多いからだ。
しかしながら、整形領域が絡まず、且つ内科的疾患や、精神症状を引き起こすステロイド等のやむを得ない薬物治療に伴う精神変動であれば、患者自身にも事前伝達されている事から、まぁこれが済めば解決すると言う、ある意味、楽観的な見方で時間を過ごせる場合もあるだろう。
但し、それが整形領域でもなく、且つ内科的疾患の治療に伴う副作用としての精神変動でもなく、純粋な精神症状を抱える因子を外的に抱え続けた場合と言うのは、極めて脱出不能ではないか、と言う観念に襲われる。簡単に書けば、「その因子から離れる為には、休職したり、退職したり、引っ越したり」と言う高いハードルが存在する為でもある。
更に言えば、仮にも休職したところで、退職したところで、引っ越したところで、それで解決する事はないかもしれない。その先々でも、やはり同様な事態に陥いる可能性まで考えると、現状を維持しながら、現症状の改善を望むケースも間違いでもないかもしれない。
そのような雁字搦めの時間である為、多くは薬物に手を出すかもしれないし、日々の因子を仮にもアルコールで誤魔化す事が出来る人であれば、アルコールに手を伸ばすかもしれない。仮にも、それが違法ドラッグに及ぶ場合もあるかもしれない。
これは1つの考え方でしかないかもしれないが、仮にも向精神薬やアルコールの大量摂取、違法ドラッグの有害性や危険性を既知していたとしても、身近な存在で精神変動が僅かでも良化するとした場合、手を伸ばすと言う気持ちも理解出来なくもない。
私自身は以前も書いたように、「残念ながら」向精神薬の類を服薬した事がなく、そのプロセスに至る迄の状況と言うのは、あくまで患者からの話でしか知らないのだが、やはり、一度でもこれらの状況に陥り、仮にも症状の改善を有した場合、有害性や危険性を知りつつも、服薬する事になろう。きっと、それはタバコでも酒でも、若しくは公道を200キロで走るのもギャンブルをする事も、全て根本的な部分で言えば共通している事なのかもしれない。
では、それも踏まえた上での話なのだが、全ての人間が、このようなリスキーな生活を死ぬまで送り続ける事は不可能であり、何処かで破綻を来たす事になる。それが向精神薬であれば(アルコールもそうかもしれないが)、経時経年に伴う不可逆的な脳萎縮かもしれないし、肝臓や腎臓等の代謝器官へのダメージかもしれないし、脳神経伝達物質の自己分泌不全に伴う、遷延性が濃厚な「病的な」精神変調や身体的機能の障害かもしれない。
多くの方々は、この時点に陥ってから「気付く」事になる為、仮にも、この時点で向精神薬の危険性を知ったからと、即時的に断薬出来る状況でもないが、常に向精神薬の事が頭から離れなくなる。止めたいが止められない、普段から既に具合が悪いのに、止めようものなら即時的に厳しい禁断症状に襲われ、再服薬をせざるを得なくなる。そのようなジレンマと闘いつつも、日常生活を送る事によるストレスも覆いかぶさり、極めて厳しい日々を送る事になるだろう。
それが、余生も僅かな超高齢であれば話は別かもしれない。仮にも、現症状が向精神薬由来だとしても、断薬する事と服薬し続ける事のメリットとデメリットを天秤に掛けた場合、服薬し続ける事のほうがメリットとして高ければ、そのまま一生を過ごすと言うのも1つの方法なのかもしれない。数年数十年と服薬し続けた場合、減~断薬の際にも体力や精神力は必要となる為、脱却出来る多くの年代と言うのも、未だ体力がある年代からなのかもしれない。
と言う事は、逆な視点で見た場合、若年層等が服薬し続けるケースと言うのが、中長期的な視野で見た場合、危険であるとも言える。これから大きなトラブルが無ければ、数十年と生きていかなければならない過程に於いて、日々を向精神薬に振り回される人生を送りたくなければ、早期段階で脱却する事が最も良い方法でもあると考えられる。
例えば、それが違法ドラッグの場合どうだろうか。違法ドラッグで幸いにも捕まった人間の中には「捕まえてくれて有難う御座いました」と礼を述べるそうだ。それ程迄に、中枢神経系に至る薬物と言うのは、個人の力では抜けるようなものではない。それが向精神薬の場合、合法であるが故、作用機序は違法ドラッグと同様だとしても、捕まえる人間はいない。
拘束理由もない事から、一層の事、抜けたくても抜けられないと言う環境下に陥る為、自己の意識が相当強くなければ、向精神薬からの脱却は不可能に近くなる。不可能に近いと言う事は、ハードルが高すぎて、諦めてしまう可能性が高いと言う事でもあり、やはり、先日も書いた通り、その意識と言うのは、患者自身の根本的な性格や意識に左右されるものである。
向精神薬由来の諸症状から脱却出来た多くの患者群は口々に「地獄を経験した」と言う。これらの幾重にも渡るプロセスを経て、精神医学とは、精神医療とは、向精神薬とは、を知る事ができ、且つ自己の服薬する向精神薬から脱却出来た時こそ、患者自身は極めて大きく成長出来ている事なのだと思う。

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