藤原航太針灸院

痛み・痺れ・麻痺・自律神経症状の難治例の検証と臨床

基礎と臨床と思想のマッチング


やりたい事をやっているとコンプレックスは生まれない。やりたい事とは何だろうか。やりたい事をやって充実している人と言うのは、やりたくない事をやっていない人の事を言うのかもしれない。では、やりたくない事とは何だろうか。案外、ここが難しい。人間は優先順位を付ける生き物。やりたい事をやり続ける事が出来ているのか。と言う事は、やりたくない事から逃げる為に逃避行動を、やりたい事として置き換えてしまってはいないかと言う事。
例えば、テスト勉強中、部屋のゴミが気になったから掃除し始めた。普段は掃除しないのに、テスト期間中に限っては徹底的に掃除した。やけに熱中した。これはテスト勉強からの逃避であり、掃除は元々やりたい事ではない。このように、個々人が熱中する物事と言うものに関しては、常に優先順位が存在し、やりたい事と逃避行動が入り混じる生き物なのかもしれない。
これは、完全に私個人での頭の中での整理なので他の人には理解し難い部分かもしれないが、やりたい事をやっていると、他者に対しても、環境に対しても、凡ゆる外部環境因子に対しても、コンプレックスが無くなる。と言う風に思うと言う事は、恐らく以前は何かしかのコンプレックスを抱えていきていた事の裏返しなのだろう。もう一度書くが、コンプレックスが無くなると言うのは、自己の表現が完結した訳でもないし、自己の考えが完結した訳でもない。葛藤や模索は様々な物事に対して抱えているかもしれない。承認欲求が無いと言えば嘘だし、支配欲が無いと言えば嘘。
承認欲求とは、己の未熟さを露呈する感情であるものだし、支配欲とは、己の未熟さを露呈する欲求である。何故、認められたいと思うのか。何故、支配したいと思うのか。それは単に自身の考えが通じていない腹立たしさでしかないのだが、そのような感情を双方が持つだけ、ありとあらゆる損失が発生しているだけに過ぎないのかもしれない。

針治療ってどのようなイメージに思われているか知らないが、東洋医学とか漢方とか、ツボとか経絡とか、きっとそんなイメージを持っているかもしれないし、神秘だとか病院で治らないのも治ったとか、ヒゲだとか長髪だとか作務衣だとか何だとか、痛そうとか恐そうとか諸々あるかもしれない。現場での患者の質問等々から汲み取れるものだが、個人的には別にこれらのイメージはどうでも良い。時に患者は
『針治療「で」治りたい』『東洋医学「で」治りたい』『漢方「で」治りたい』『ツボや経絡経穴「で」治りたい』
とか提示してくるもの。ヒゲか長髪で治りたいと言う人はいないが、何故、このような考えを持っているのかも汲み取りたいところ。別に私は、このような考えを一切持っていないし、このような考えで望まれても私は応える事は出来ないが、患者過去に何かしかの背景があっての事なのかもしれない。
そこを考察すればキリがないかもしれないが、「治る」「治らない」以前の問題とし、術者思想と患者思想がマッチングしない限り、治療は継続しない、治療が継続しないと言う事は、どうしても治療回数と治癒率が比例する治療手段に於いては途中でズッコケる。もちろん、手術やクスリを推奨している訳でもないが、極端な事を言えば、治るなら何だって構わない。
但し、世の中には凡ゆる治療手段があり、これらの治療には作用の強さ、作用の弱さ、作用時間の長さ、作用時間の短さ等々が絡んでくる。強い作用を持ち、長く作用時間を齎す治療手段と言うものが、患者の経時変化に於ける改善度合いが異なってくるものでもあり、それが結果的に患者に対してのメリット(治ったなぁと言う感覚)に変わる。
さて、現医学の治療手段に対して様々な苦言を呈する代替医療者も多いと思う。もしかしたら私もその1人かもしれない。では、事実、代替医療と言われる凡ゆる手段を引っ括めて見た場合、代替医療と言われる世界も、相当ヤバイ事にも気付く。免許所持者であれば、法的な制約もある為、書けない事、言えない事も多くあるが、法的な制約を持たない無免許で代替医療を行う方々は、基本的に「何でもアリ」。
何でもアリと言う事は基本的に詐欺の温床にもなる。挙げればキリはないが、このような事柄は免許所持者も含めての話になる為、無免許に限った話でもないのだが、更に考察すれば、仮にも私は今、「詐欺の温床になる」と書いた。それは私自身、凡ゆる治療手段を精査してきた結果かもしれないが、当の本人達にとっては「詐欺」行為をしているとは一切思ってないと言うケースも多く含まれていると言う事。
この考えは、精神医療や精神医学に話を置き換えれば分かり易い。向精神薬の有害性や危険性を訴える方々の多くは、言葉の節々に「詐欺の温床である」と言う事を含んだ発言をするが、実は当の本人達にとっては大真面目である可能性も多く含まれていると言う事。大真面目に薬漬けにし、常用量離脱も現疾患の悪化とし、増量する。もしかしたらこのような行為も、大真面目に行っているのかもしれない。
ここで「大真面目」と言うワードが出てきたので、大真面目について考えなければならない。既に、この「大真面目」と言うのは、「治療」と言うカテゴリとは異なる観点で物事が動いている事に気づく必要もある。「大真面目」と「治癒」はイコールで結ばれない。しかし、「大真面目」である術者態度は、患者の「感情」に訴えかける事になる。
「感情」に訴えかけられた患者は、「大真面目」な術者態度に心を惹かれ、大いに自身の身体を預け、その結果、薬漬けになったりして具合が悪くなるのだが、それは「大真面目に薬漬け」する術者に当たってしまったと言うだけの話。人は感情に訴えかけられると弱い生き物。それが、視点を変えれば不安ビジネスと言われたり、依存ビジネスと言われたりする訳だが、それすらも、当の本人等は「大真面目」にやっている可能性もある。
向精神薬被害に遭ったと気付く患者層の多くは、非常に聡明で、もしかしたら年収という面でも高い層が以外と多い事も知る。そのような地位に上り詰めると言う事は、相応に仕事しなければならない。仕事をする為に向精神薬を浴びるように飲み、その結果、機能破綻したと言う結果に陥ったと言う話でもあるのだが、それが向精神薬の有害性によるものだと気付いた層は未だ回復の道は幾らでもある。圧倒的多数は気付いていない層と言う事も、今一度知らなければならない。この点に関しては、自身で道を切り開いてきた背景を有しているか否かに左右するのかもしれない事を患者思考から読み取れる。
要は、患者自身の過去の背景、患者の根底的思考が如何なるものかで、結果的には自身が服薬していたクスリに対しても疑問を持てるか否かに帰結すると言う事である。根底的思考が「言われるがまま」過ごしてきた背景を抱えている場合、服薬態度も「言われるがまま」となる。医療以外の場面でも、時に人間は悩み、不安を覚えるもの。
その時に、どのような解決策を以て切り開いてきたかが大切な部分。それが言われるがままの根底的思考を有している場合、現医学の多数派となる、手術をし、クスリを飲み、と言う段階を経る場合も多く、先に書いた向精神薬の有害性と言う部分に関しても鑑みる事なく時を過ごす事になるケースが多い。
「死ぬまで飲んでろ」に何故疑問を持てないのかと思う時も多くあるが、それは私個人がそのように考察しているだけで、患者自身には「死ぬまで飲んでろ」が当たり前であり、疑問を持っていないと言うだけにも過ぎないのかもしれない。
針治療を受療する方と言うのは、どういう方なのかなと思う。私自身は針師との繋がりはあまりないので他の所は知らないが、その「大真面目」に疑問を持った方々なのでしょうか。感情誘導に疑問を持った方々なのか。感覚的かもしれないが、そのように感じる。
取り分け、積極的治療手段に分類される針治療に関しては、患者自身の積極性も必要になる。積極性を要すると言う事は、患者自身も受療する迄、エネルギーを要する事になる。針を受けるまで3ヶ月悩んだとか、半年悩んだとかなんて話はよく聞くもの。結局、其れくらい悩んだり、歩けなくなるまで悪化したりしない事には受療しないものかもしれない。やや極端な例かもしれないが、患者のエネルギーを要する治療手段は結果的に敷居が高くなるもの。余談ながら、今飲んでいるクスリの作用副作用と、針治療の作用副作用を天秤に掛けたら、どっちがヤバイのかとも言いたくなるものだが、それは知らなければ分からない事なので、ここは割愛。
故に、カジュアル性を持たせなければならない。が、そこの観点を大いに間違えているのでないだろうかと思われる院も多く存在しているのも事実。業界は癒しに逃げている。専門性を悪い意味で高め、患者を選別している。代替医療って手段は、現医学の隙間を担う手段でも集団でもなく、現医学を追従した思考性を持つ手段でも集団でもない。そもそも、「代替医療」って言葉が良くないんじゃないかと思うし、「医療」って言葉も良くないんじゃないかと思う。
そんなイメージ的な区分けはさて置き、凡ゆる治療手段を精査し続け、凡ゆる治療手段の患者の経過観察、追跡もし続けた結果、針治療が一番安全性と安定性が高い結果を出し続ける事が出来ると言う事を現段階では知る為、針治療をしていると言うだけに過ぎない。

基礎と臨床の区分け。想像しているだけで時間が幾らあっても足りない。これが非常に面白い。例えば「肩が挙がらない」なんて人。何を基礎として、何を臨床とするか。と言う事。画像所見上、占拠性病変や運動神経系の脱失及び損傷等々が無い事を前提とし(有ってもいいけど話せばキリがなくなるから、今は無いと言う事で)、肩関節が挙上不能に陥いっている場合、何を見るだろうか。肩を挙げる為の筋肉は〇〇筋と〇〇筋で~みたいな見方を一般的にはすると思う。場合によっては〇〇筋と〇〇筋に関連する、協調する、拮抗する、連動する、凡ゆる部分を連関性を以て考察する場合もある。
さて、此処までは、基礎か臨床かと言う観点。仮にも〇〇筋と〇〇筋にアプローチをし、且つ連関性のある部位にもアプローチをする。では、此処までも基礎か臨床か、と言う観点。個人的には、これらは全て基礎。基礎と言う観点は、それは極めて当たり前の事であり、臨床結果としては結びつかないと言う意味。アプローチしても無駄ではないけど、臨床結果としては弱いと言う意味。
ここを順繰り順繰り考察して練り上げていけば、もしかしたら今までは臨床として捉えていた部分も基礎に格下げされるかもしれないし、臨床と言う観点に於いても、「肩が挙がらない」だけに留まらず、異なる事象に於いても応用が効くようになってくる。取り分け、教科書的感覚で書けば、基礎しか書かれていない。それは当たり前。臨床現場で常に消化し昇華させ続ける行為に関しては、極めて流動性が高く、纏めるにも纏めようがないから仕方ない。

学問とは想像を嫌う生き物。想像を嫌う為に、基礎思考内での臨床論から脱却が出来ないに過ぎない。基礎は勿論大切な事かもしれないが、基礎と臨床は基本的に立ち位置が異なる。基礎は治療に興味がない生き物でもあるからだ。臨床は想像が豊かであればあるほど伸びていく。基礎は臨床と言うリスクを背負う事がないから心持ちも異なる。臨床はリスクを背負う立場にもなる。故に、リスクマネジメントは極めて大切な部分になる。
では、臨床とは如何なものかと問われれば、症状を動かす事の出来ない手段は臨床とは言えない。症状を動かす事が出来て、初めて臨床としてのステージに上がる事が出来る。では、このステージ上で起きている中でも、基礎と臨床は常に混在しているものでもあり、自身を臨床家と自称している中でも、言っている事、やっている事は基礎の思考内でしか起きていない事も多々ある。先に書いた、「肩が挙がらないから〇〇筋に処置します」と言うのが良い例である。
あくまで臨床とは如何なる手段よりも早期回復を求め続けるのが課題であり、悠長な事は言ってられないのが臨床でもある。基礎には時間と言う枠は存在しないが、臨床には時間と言う枠が存在する。それには、自身が用いる手段の作用時間の把握であり、患者の抱える症状の把握であり、それに伴う適正な受療スパンであり、治療反応性に伴う症状改善期の予測であり、仮にも治療反応性が乏しい場合に対しての柔軟性なのかもしれない。臨床は如何なる場面に於いても常に臆病で無ければならないと思う。故に、大先生ヅラした臨床家ほど恐いものはない。自身の治療に固執し、絶対的支配を患者に押し付ける事は、凡ゆる角度から捉えてみても、デメリットが大いに上回る。

参考関連(クリックでリンク先にジャンプします)

【電話】 0173-74-9045 又は 050-1088-2488
                             (携帯 090-3983-1921 Cメール可)
【診療時間】 7:00~21:00 時間外対応可
【休診日】 なし 土・日・祝祭日も診療しています
【PCメール     
fujiwaranohari@tbz.t-com.ne.jp お返事には数日要する場合も御座います

  ~針治療から病態定義の見直しを~