藤原航太針灸院

痛み・痺れ・麻痺・自律神経症状の難治例の検証と臨床

感情論介入の功罪


【広島往診4】の日取りは決定しています。ご治療を希望される新規の方はメールでご連絡下さい。関東以西からのご依頼、ご依頼者さま宅内でのご治療希望、広島県周辺でのご治療希望等々に関し、全ての患者さまが公平に経済的コストでメリットが生まれた場合、積極的に検討しております。

通常行っている単独往診とは異なり、皆さまでコストを分散頂き、広域に渡る範囲を移動しながら各治療場所を点在する場合、ご希望通りの日時に行えない場合も御座いますが、ご連絡頂ければ大まかなスケジュール等はお伝え出来ると思いますし、可能な限り柔軟に対応出来るよう務めて参ります。

医療の中心は保険医療であり、多くの制約の上で動き続けている事を先ずは既知しなければならない。そのような中、実験的要素が高い大学病院は、少々逸脱した行為をしても監査も寛容である事から一概には言えない部分もあるが、その実験的要素も始まれば後に戻れなくなるような薬物治療が中心である事は過去の歴史を振り返れば分かる事で、特に日常生活を皮切りに発症し易い諸症状の群ほど層が厚い故、軽視されがち、又は匙を投げられた態度で接された層も多く、とは言え、ニッチな疾患だとしても、火消しをするだけの手段しか持ち得ていない現状も知らなければならないかもしれない。結果的にどのような病名であったとしても、どのような症状であったとしても、最終的な手段は似てくる。
 
最終的な手段は似てくるかもしれないが、それを個の患者は知る由もない。普段からそのようなトラブルに備えて知識を持っている人間はそうそういない。だから情報は間に受ける傾向は高いし、良くならなくとも良くならない症状であると自問自答の末、自分自身を諦めさせる。デカイ箱に行き、数分の時間を獲得する為に数時間固い椅子に座り続け、家に帰ったら、まるで遠方に旅行に行ってきたかの如くの苦労話をする。その苦労話は、治る治らないではなく、自己の目標を達成した事による満足感である感情論でしかない事に気が付かなければならない。不思議な事に、多くの患者は手術をして良くならなくても満足感を得ているし、良くならない事を告げられても満足しているし、自己の行為を肯定したいかの如くの立ち振る舞いをする傾向にあるのだが、それらの行為も残念ながら医療の範疇では既にない。
 
感情論は人間を治せるだろうか。絶対に治せないと思う。頑張れとか頑張ってるねと言われたら嬉しいかもしれないが、それで治るなら誰も困っていない。しかし病と言うのは残酷で、否、患者は常に不利な立場であり残酷な立場に追いやられがちであり、手の込んだ症状を抱えていればいるほど、対応する人間は感情論に成りがちになっていないかにも気が付かなければならない。何故、手の込んだ症状や、治るか治らないか微妙な症状、又は治らなそうな症状ほど、対応する人間は感情論に持ち込もうとするかも考えた事はあるだろうか。答えは1つで面倒臭いからだ。結局は対応する人間も感情を持つ生き物だという事を患者側は忘れてはならない。
 
1つだけ妥協案を挙げると、私たちは星の数程の病名が存在する世界で生きているが、その多くの病名を告げられる「だけ」なら幾らでも感情論を述べても良いと思う。励まし合う事で自然発症性の症状なら自然治癒するかもしれないからだ。今までの人間はそのようにして生き、繁栄してきた。しかし、どんな病名を告げられたとしても、薬物が入った時点で感情論では既に治らないシステムに身体はなってしまう。薬物の反応性は感情論では対応不可能な事実になる。
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私たちは何の為に生きているのだろうか。病気である自分自身を憂いてもらいたく生きているのだろうか。同情してもらいたい為に生きているのだろうか。そもそも病気とは一体何なのだろうか。同じ人間が考えた病名を鵜呑みし、その同じ人間が病人となり、その病人が満足気味に病名を振り翳している姿には常に違和感を覚える。
 
具合が悪ければ、今の時代は何処かに行けば病名の1つや2つ存在する。病名が見つからなければ違う病院にでも行けば何か教えてくれるかもしれない。それでも見つからなければ「年のせい」「気のせい」「思春期」「成長期」「心因性」「精神異常者」である。これらをレッテルであると患者が自己で認識しない限り、残念ながら未来はない。そして、仮に病名が付いたからと病名自体に何の価値があるのだろうか。その病名は何の為に誰の為に創設されたのだろうか。病名が見つかるからと言って、それが現在出ている症状を改善させる為の出口が見つかる事は今まで何れ位あっただろうか。
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生きてれば其れで良い、と言う考えが根底にあり、生きてれば其れで良い、と言う以上の垣根を越え難い制度が中心で、生き永らえたなら、それ以上の高望みをするなを押し付けてくるのが現状で、それらの事情と考え方が蔓延した理由の1つも、制度に依存しているが故であり、依存しているが故に回復に障壁を作っている。
 
多くの薬漬けにしている人間と、薬漬けを推奨している人間、精神医療や向精神薬に繋げ、患者の人生が直接的にも間接的にも誘導した事によって人生が破壊されようがどうなろうが自分らの生活は保証されている立場の人間は多く、仮に患者が薬漬けとなり厳しい状態に陥り、そのような人間たちに対して声を挙げたとしても、結局は幾らでも逃げ道はあり、自分らの食いっぱぐれもない。
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残存機能を活かす、と言う考え方は完全な逃げ腰で、後遺症だから諦めろと押し付けられているようなもので、他人に後遺症を認定され、それが幸せに繋がるだろうか。現在のリハビリの考え方の多くがそうである。死んだ機能は治療対象とされず、取り敢えず動く部位の可能性を拡げるだけで患者は満足出来るのだろうか。受容なんて単語を患者が間に受けている内は、その将来性は真っ暗であるし、諦めの精神を植え付けさせているのが現行制度であり、受容する事と受容した上での精神論を美学とさせた現状は大いなる恥であるし、双方の成長に制限を掛けている。
 
簡単に手に入れられる情報の多くは、薬物治療等の姑息的手段を基礎とした症状対峙との情報が中心であり、姑息的手段の治療反応性を基礎とした症状推移であり、その症状推移が現状の病名の基礎となり、その基礎が情報となる。治療者が異なれば見立ては異なる。見立てが異なれば治療内容は異なる。治療内容が異なれば治療反応性も異なる。治療者が異なれば適応症も非適応症も異なるだろう。治療者とて過去症例との照合や比較、又は症例経験の差や経験の有無で大きく異なってくるだろう。
 
その為、片や治らない人間もいれば、治る人間も現れる。それでも尚、これは1つの考え方でしかないが、人間の身体と言うのは幸いにも有限で、未だ解明されていない事項も数多くあるかもしれないが無限ではない。無限ではないと言う事は幾らでも可能性は秘めている。考え方1つで何処までも人間は回復出来る可能性も秘めているのではないかと思うのだが、これらに対しての積極性だの消極性だの信じる信じないと言う概念は、残念ながら無限である精神の問題である事から、感情1つで人間は諦めてしまい、感情1つで人間は何処までも前を向ける。
 
多くの人間は「患者」となった瞬間から侮辱と屈辱を受け易い立場に追い込まれる。そのような侮辱と屈辱を受け易い立場はこちら側とて同じかもしれないし、全てが思った通りに上手くいくなんて事はないかもしれないが、その侮辱と屈辱を浴び続ける悪循環を断ち切ろうとした感情が新利の風となるのだろう。

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イメージ 1 ~針治療から病態定義の見直しを~