藤原航太針灸院

痛み・痺れ・麻痺・自律神経症状の難治例の検証と臨床

「再発」の定義考


針治療は様々な症状に対応出来る反面、様々な可能性を求めてくる患者が来ます。
完全無欠の何をやっても生涯無痛を求めてくる人もいれば、腰部痛プラス腰神経群由来の下肢痛の内、下肢痛さえ消滅すれば、腰部痛の再発は再発と捉えない人。知ってのとおり、後者の考え方を持つ患者が身体内部の特性を知っている人の発言です。使えば傷み、痛む。
薬剤性や外傷性を抜きにした純粋な整形領域や自律神経領域は日常生活で起きます。だから、日常生活を省みる事も患者には持ってもらいたいと思っていますが、日常生活を省みる事が一番の面倒。
でも、鍼灸適応領域外の疾患で考えてもらえれば、以外にも話はすんなりいく。肺がん治療に煙草を推奨している人は誰ひとりいないか勝新太郎位か。だから、早期回復を求めるなら整形領域や自律神経領域等の命の危機には至らない程度の疾患とて、そこは軽視せずにさっさと治してもらう事が症状の拡大や重篤化を未然に防ぎ、且つ、早期QOLの向上に繋がる。
死にもしない疾患に対して日常生活を省みるって一番面倒臭い事。死にもしないからと、安易に薬物治療を開始した事によって本当に死ぬ人が出てくる。それは整形領域とて精神科領域とて。
腰痛だけなら人は死にませんし、うつ症状だけでも人は死にません。
「腰痛プラス薬物」で死亡確率が上がる。
「うつ症状プラス薬物」で死亡確率が上がる。
例えば以下のような段階を踏む患者。結構一般的に散見されます。
OTC含むNSAIDs長期乱用による受傷患部如何問わぬ(捻挫、突き指、頭痛、筋肉痛、腰痛、肩こりでも何でも)耐性獲得に伴う離脱で全身に波及した関節痛、筋肉痛、筋痙攣、筋硬直、高血圧、伴日常に於ける高頻度使用~高負担部位の脆弱性、これらをベースとした交感神経過剰亢進に伴う頭痛、目眩、吐き気、蠕動運動限弱、膀胱直腸障害、極端な冷・温感等々の継続的惹起。
更にこれらをベースとした悪循環による長期乱用。更にOTCでは足らず病院に行き検査をするも異常を示さないながもステロイド投与、向精神薬投与、TNFα阻害薬等の投与、更に反応を示さない為に減薬(ステロイド等)時に於ける離脱に対して更に向精神薬投与。且つ、これらも長期に及べば耐性獲得による常用量離脱の出現や副作用の出現。常用量離脱を離脱と見ない為に更なる増量。途中に低周波をガン当てしてたり強圧で揉まれてたらもうちょっと憎悪速度の加速。
さて、アナタならこれらの全身に波及した痛み、且つ多くの自律神経系症状が惹起した身体状態に対して何という病名を下しますか?という問題です。実は既存の病名を宛行う事は可能ですが、病名を宛行う事が大切な事なのではなく、過去から現在に至る迄のマイナス要素の取り込みを省みる事が1番大切な要素になってきます。薬剤性で惹起された症状に対して既存の病名を宛行う事が「治る」に直結する事なんてないのです。
長くなりましたが、必ず症状憎悪にはキッカケがあるって事です。
その憎悪のキッカケさえ患者が知識として持っていれば止められる。
此処まで薬物治療が蔓延しなかった時代。それは昭和初期か明治時代かそれ以前か。その時代の針灸適応疾患患者は相当治りやすかったのではないかと思います。

ぶっちゃけ再発の定義を考えるなんて、どうでも良いと言えばどうでも良いのですが、本人がどうでも良いとは思えないので色々考えて残していますが、何か参考にでもなればと思ってワードソフトから以下をコピペしてみました。再発ってなんでしょうか。薬効時間が過ぎても尚、症状の軽減が得られている事を「治療効果あり」と見るのが一般的かもしれませんが、さて、薬効時間が過ぎても症状が軽減している理由には、薬効作用のみでなく、経時変化に伴う自然治癒(自然治癒に伴う症状軽減)というのも考えられます。
治療に伴う価値ってなんざんしょ。針治療とて、筋由来、末梢神経系由来、中枢神経系由来、自律神経系由来で治療後の症状改善自覚は、各カテゴリで全てタイムラグが生じているのが大半です。薬の効き方に慣れた人には、針灸の効き方は感覚的に慣れないのかもしれないですね。
針灸治療の主な適応症状(痛み・痺れ・脱力等々)は全般的に数値化し難いブラインドの世界です。高血圧等々であれば数値を確認する事で治療効果というのは確認出来るものですが、高血圧を主とした来院動機患者というのは皆無の為、刺針部位によって副産物的に改善が見込まれるものに関しては、治療側が事前に伝達しておく必要性もあり、この伝達の有無により、逆に不信感を持たれてしまう時すらあるものです。
伝達の有無により、本来であれば作用として働いている事象も、患者にとっては副作用と捉えられてしまいます。その為にも、針灸の作用は然と術者側も掌握しておかなければならないのですが、如何せん、まだまだのように感じられるのは私だけでしょうか。
簡単に書けば、患者は基礎疾患として高血圧の為に降圧薬を服薬している。しかし、別件で針治療を受けている内に血圧は低下し続ける。その状態で更に降圧薬を同量で服薬し続けていれば、必要以上に血圧が落ち、低血圧症状を引き起こしてしまう。という図式は中高年患者であれば頻繁に起きるケースですので、患者全体の状況は掌握しておく必要もあるでしょう。
ではここで、再発の定義とは何ぞや、という問題に向き合わなければなりません。では、それ以前に「再発の定義」の意味を基礎の基礎から改めて考える必要があります。例えば、冒頭の高血圧患者が降圧薬を服薬する。薬物にも作用時間が存在しますので、作用時間中、血圧が適正値に落ち着いているが、薬物の作用時間が過ぎたら血圧が上がる。
これは、再発という言葉の意義自体存在しないものです。もう一つ、鎮痛剤にも作用時間が存在します。鎮痛剤の作用時間中は痛くないけれど、作用時間が過ぎたら痛くなった。これも、再発という言葉の定義自体存在しないものです。
では一体、治癒に向けての再発という意味は何なのかを考える必要性があります。先ほどの話から引き続き書くと、降圧薬の作用時間を過ぎても血圧が落ち着いている。鎮痛剤の作用時間を過ぎても除痛されている。という事になります。現実問題、そのような都合の良い事はありませんので、多くの方は一生降圧薬を飲み続けるように言われたり、痛みが作用時間のみでも消えるのであれば、常に薬物が血中に存在するように服薬し続けるという状況であり、それを個人的には治療とは捉えておりませんが、世間一般では「薬物治療」と呼称しています。
このように捉えると、「再発」と呼称して良い治療手段は「作用時間を過ぎてでも、尚、症状軽減がある、もしくは作用時間を過ぎても症状の消失があったにも関わらず、再度、症状が出てきた」という状況に限られてくるでしょう。そのように考えると、治療とは何ぞやというのも見えてきます。
場合によっては、薬物や手術に頼る事が早期治癒、早期QOLの向上に寄与出来る可能性もあるでしょう。この辺りの観点も含めて書けば但し書きが莫大になる為に書きませんが、一般的に針灸適応疾患に関して書けば、元々の症状自体、自然治癒する可能性があるものです。その自然治癒に向けての速度を向上させるものが、治療と呼称されるものであり、且つ、そのカテゴリ枠で「治療」や「治癒」、「再発」という言葉が用いられ、更に、言葉の意味が価値を生んでくる事になります。
非常にまどろっこしい書き方をしましたが、ここで初めて「再発とは?」と考える段階に入る事が出来ると思います。改めて、「作用時間を過ぎても症状が改善している」事が「治療」としての意義を持ち、「作用時間を過ぎて一旦は症状が消失したが、時間の経過で症状が再度出てきた」が「再発」であり、「作用時間を過ぎても中長期的に症状が消失している」が「治癒」という言葉を用いるのが適切な用い方であり、「薬効時間のみ症状が改善している」というのは「治療」や「治癒」でもない為に、薬効時間を過ぎて症状が現れた事に対しては「再発」と言う表現は不適切となります。
そして、以下に至ってくるのでしょう。例えばガイドライン上、もしくは保険上での限界の力価を持つ作用しか許せなくとも、針灸治療の場合、基本的にその限界はないし、制度上の制限も存在しません。故に、やればやるほど術者は疲弊するかもしれませんが、患者にとっての最大幸福を願うのであれば、やりきる事が大切であり、それが結果的に術者にとっての幸福に繋がる事を後々知る事になります。

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基礎学問が数十年にも渡り殆ど不変である事は、中身が事実に限りなく近い状態であり、変えられる余地がないからである。故に、時に基礎学問に新知見が見られた場合、大きく軸は転換を始める。その一方で、臨床学問は、現場から構築された要素が高い理論理屈となり、数年~数十年で変化していく。そして多くの枝葉を持つ。その理由は何故かと考えた事があるだろうか。
日々、今か今かと若い世代の臨床家が現場を通じて構築してきた理論を世に知らしめようと必死ではあるが、残念な事に既に偉い立場にいる人間が世に出した既存の理論は、仮に事実だろうが事実でなかろうが強固となり、そう易々崩れる事はない。そして、これらの創られた事実が崩れる瞬間というのを又、ご存知だろうか。答えはこの場では書かないが、それは余りにも呆気ない理由である。
医者の肩を持つ訳ではない事を前置きとして書くが、医者は雁字搦めの中で治療を行っている。行わざるを得ない理由があるからである。天井がある上での縛られた治療内でしか患者と対峙出来ないからである。それを世間一般では保険治療上、ガイドライン上の問題と言い換えれば理解は早い。積極的に患者と対峙したいタイプにとっては息苦しいだろう。
そして、薄々は自身が感づいている本当の事実も、場合によっては捻じ曲げなければならない時もある。それが何れ程までにストレスに曝された心理状態であるかは想像に絶するものである。そのようなストレスは患者から言われる苦言等ではなく(患者からの苦言は信念がある人間なら寧ろ心地良く感じ、成長に繋がる)、同僚や上司との問題、保険上、ガイドライン上、経営上の問題にである。では、開業針灸師はどうだろうか。
ある意味、自由なのである。自由というのは治療リスクさえ考慮した上であれば、幾らでも青天井で作用を強化させる事が可能であり、早期回復を求む患者ニーズを叶える事が出来る可能性を秘めているのである。
しかしながら、何処まで皆が知り、理解しているかによっても大きく左右してくる問題もある。そもそもの「治る」という意味の根本的思考が異なれば、患者は常に相反し続ける作用を良きものとして取り込む傾向が高いからである。身近な例でとして、患者は針治療を受療しながら他の医療機関で薬を貰って飲んでいるケースはよくある。時系列的に明らかに針治療で種々の症状が軽減~改善~完治したとしても、その事を医者に告げれば「針治療で治るはずがない」「あるはずがない」「ありえない」と述べられる。その次に出てくる言葉は「症状が改善しているのは薬が効いているからだ。薬を飲み続けなさい」である。如何にも医者っぽい対応であるが、一般的な遣り取りだろうし、私以外の術者も幾度となく経験していると思う。
例えば、針治療で症状が改善したとしたら、同一症状の改善を望み服薬していた薬物は有害となる。数値化出来る検査であれば尚の事把握し易い。もう少し柔軟性のある思考があれば、針治療の効果を認め、薬の減薬~断薬を経て治療終了を告げる。得てしてそのような医者はウチの患者だったりもするのだが。針治療の作用なぞ極めてシンプルな為に、説明をすれば理解ある人は幾らでも理解し易いものなのだが。理解不能な状態に陥っている場面が後を絶たないのは、東洋医学というオカルトちっくな理論を用いる私達の業界の責任もあるだろう。
たまに私が医者を敵対視している書き方をしているからか勘違いしている人もいるようだが、意外と医者と仲が良かったりもする。それは患者に対しての治療理念上で免許の垣根を越えて仲良くなっているだけである。私を嫌っている人間は、どんな病名を抱えていようと「現時点」でオピオイド系鎮痛剤や向精神薬に甘美している薬物中毒患者だろう。前にも書いた事だが、これらの中毒患者は幾ら様々な資料を提示しても信じない時期である。
人間は現時点で自身が良かれと思い取り入れている物事に対して他者にコンサルトする際も、都合の良い事しか受け入れ難い生き物であるから、都合の良い事を言ってくれる人間に対してしか靡かない。(これが強い副作用や常用量離脱が頻発するようになると、心身の状態が悪くなり過ぎ、その時に資料を提示しても読む集中力すらない為、結果的にどの時期でも理解は難しいのだが…)。そんな患者からも時折「針ってクセになるんですか?」と聞かれるが、「その薬はクセになってても良いんですか?」。名指しで行くなと言い散らかしている精神科医や脊椎外科医がいる事も知っている。針治療をしている事を告げればプライドが傷つくのか、理由不明で検査入院と称し、暫くの期間、患者を拘束してしまう医者がいる事も知っている。普段は手術を渋っているにも関わらず、針治療をしている事を告げると簡単に手術をしてしまう医者もいる。
このような気持ちは向こう側の立場で考えれば分からないでもない。何故か分かるだろうか。ステンレスの針を刺す程度で治ってしまったら立場が無くなるからである。過去に築いてきた栄光や苦労が全て徒労となり、面子が丸潰れになるからだ。
とは言え、医療選択は自由意志によるものであるから、これらの件に関して抗議する事はないだろう(散々痛い目に遭って本人が気づいてからでなければ治癒に運ばないケースなど腐る程ある為、患者自身の意志がフラフラしている内は何をやっても無駄)。
患者を拘束して自分の名前も言えなくなる程に向精神薬で狂わせてから私の所に再度押し付けない限りはだが。余談ながら、仲良くなれない人物達とは、薬漬けにして中長期的な将来を遮断し、抜くに抜けない薬を散々浴びせた末、副作用なのか離脱症状(若しくは常用量離脱)なのか元々の病なのか新たな疾患なのか謎めいた状態にさせ、最後は精神疾患患者として見放す医者と患者家族である。
これが仮に高齢者だった場合、高齢を理由に責任は擦り付けらる。他の年代であれば心因性か気のせいか更年期か思春期か精神疾患か、そんなものである。物事は多面的、且つ患者意志に沿った医療選択、将来性を考慮しなければならないのかもしれないが、日常的に鎮痛剤や向精神薬が濃厚に関連した状態で今が良ければOKという思考の繰り返しの代償は計り知れないものになる。
何れ服薬も長期に及べば神経や脈管系、筋肉等の種々細胞や内臓器官の疲弊は避けられない。場合によっては不可逆化する。これらの事実は、幾ら作用を実感してようが実感してまいが、私の意見に反論しても反発しても感情剥き出しになっても闘病頑張ろうと声を上げても幾ら都合の良いムンテラしても、服薬している事実は変わらない。医療不信に陥った患者は病名を探し回る為に病院を巡り歩く。症状が消える事も望む一方、病名探しに躍起になる。都合の良い病名が見つかれば赤飯まで炊いたりする。その内に病名が幾つも並び始める。その病名に対しての薬物治療は結果的に鎮痛剤と向精神薬しかない。
当たり前だが、そんなものを飲み続けても治らない。そうこうしている内に、自身の病名や症状を美化し始める。周囲に同情を買ってもらうように努める。同情の言葉が心地良く感じるようになる。同一症状を持つ患者同士でコミュニティを形成し、薬の情報交換をする。患者同士で薬の横流しをする。足りなければ個人輸入する。既にそこまで行くと治る病も治せない思考状態に陥る。何なら私が病名を付けよう。薬物中毒と言う立派な病気だ。薬で悪くなった心身を更に薬でマスクするだけの日々になる。そんなすったもんだの話しは今に始まった事ではないのだが、医療に従事する以外の方々は幾つか考えた事があるだろうか。医療の限界とは、その個人の限界であるという事を。
日常的に発生し易い運動器疾患を例に挙げてみる。その場合、医療機関で聞く言葉が幾つかあると思う。「この注射は週に1回ね」「月に3回までね」「膝が痛いから膝に注射ね」「肩が痛いから肩に注射ね」等々である。これは保険上やガイドライン上の問題に端を発している。更に言えば、治療を弱める事は可能でも、治療を強化するのであれば保険外となる。ガイドラインに即した治療以外も結果が出なければ面子が潰される為に難しい。
これらに正直な医者ならば正直に告げるかもしれないが、多方の患者は疑問に思う事なく帰宅する。ガイドライン上に基づいた治療以外の事を行えば上司や同僚に妬まれる。まして、それで結果を出しても出さなくても上司の面子が潰れる。さて、これは患者の為になっているだろうか。医療の限界とは、このような些細なケースでさえも起きている事を私達は再認識しなければならない。しかしながら、保険外での治療になると、極端に治療費が上がる。それは皆知っている。保険内治療を普段から行っている患者が、時折保険外の治療費を払うとなると、極めて高額に感じる為、面倒になる。そうなると治療の進捗は急激に遅れる。
幾つかの問題が生じる。1)患者が抱えている症状が保険内治療では作用が弱く、且つ既存の治療では治る気配がない。2)その場合、保険外治療で治癒速度が上がる可能性も期待出来るが、コスト高となり患者の支払いが続かず、結果脱落する。3)では、保険内治療のまま長期に渡る治療を行う事が双方の負担にならずに済むが、受傷起点が日常生活である場合、長期的治療プランは患者の行動制限が伴わないと、結果的に回復と受傷の天秤は良化に傾き難く、治りが悪い、治りが遅いとなる(たまに「医者に言っても『寝てろ』『会社休め』と言われるだけだから針に来た」という人もいるが、これは治癒に運ぶ為の正論なのである。
動いて傷めた身体は動かない努力をすれば回復へと運ぶ。その事実を患者が拒否するが故に治癒遅延は招かれる。何故、『寝てろ』『会社休め』に対して反発心を持つか。それは受け入れ難い程の正論にしか過ぎないからだ。勿論、針治療で急激に回復は見込まれるが、原則として患者自身が積極的休養を取る事には異論はない)。このような強いジレンマが双方に生じ続ける。その内にどちらかが妥協する。折れる。諦める。このような悲惨な顛末が待ち受けている。治療はそうであってはならないものなのだが、治療をするにあたっても双方に種々のコストが発生するのは否めない。その為、患者の治癒を最優先するとなると、医療者側が犠牲となり、自腹を切り、そして覚悟を決めなければならないケースが時に発生する。
私が以前1回の針治療で発生するコストを医療機関で行ったと仮定し、照らし合わせた場合、幾ら位になるか計算してもらった事がある。勿論、症状や発症範囲で治療内容に差は出るものであるが、1番安いコストで見積もったとしても、1回毎で5万~30万程度の費用が発生していた。それ程迄に治療を強化して初めて達成出来る事実があり、治療期間を短縮させる事が出来る事実があり、患者の早期社会復帰が実現できる事になる。最早、保険上、ガイドライン上、倫理上なんて関係ない。目の前の人間が安全に早期回復すればそれでアリなのだ。
勿論、私の治療で全ての患者が治ったかと言えばそうではないし、双方が全力で挑んでもダメだったケースもある。勿論、これらの患者は既に他医療機関を回り尽くしてからであったのだが、ここでも止められなかったのは悔しいものである。しかしながら、恐ろしい程の自己犠牲と集中力と緊張を強いて初めて見えてくる知見というのもある。
得てして個人開業の理由の多くは、以下のようになると思う。コストと時間を自由に使いたい。上司の顔色を伺って患者に言えなかった事を言えるようになりたい。積極的治療姿勢を見せる患者群に対しては、積極的に治療を強化して早期回復を狙いたい。そのような野心が無ければ開業なんてするだけ無駄なのである。患者の多くは大病院に行きたがる。しかしながら多くの個人開業者は、そのような大病院に対して理由や疑念があり開業しているという事も知らなければならないのかもしれない。新しい知見や治療は大病院でも生まれるかもしれない。しかしながら個人が生む知見や治療は現場で構築され熟成された価値ある内容である事も知らなければならない。そして、そうであってほしいと願う。
限界を超えるなんて実は容易いのである。教科書を捨てれば限界は既にない。自分の頭で考え、一歩ずつ構築していけば、限界を超えるなんて容易い。只単に外野の人間が騒がしくなる程度であって、患者を如何に治すかだけを考えていれば、自分で考える事の出来ない人間の意見など、全く耳に入らなくなるのである。ピーチク言ってる内容なんぞ、既に教科書に書かれており、それで患者が治っているのであれば何も言っていない。
背徳であり背水である事にも変わらない。無効治療であった事を告げられたら素直に頭を下げ、再度治療を練り直しする。無駄にプライドがある人間になんか出来ない行為である。そこを幾つも乗り越えていけば、当時は頸がおかしくなる程に見上げていた限界の壁も、既にずっと下にあるはずだ。

参考関連(クリックでリンク先にジャンプします)

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  ~針治療から病態定義の見直しを~