藤原航太針灸院

痛み・痺れ・麻痺・自律神経症状の難治例の検証と臨床

基礎から臨床への昇華


このような書き方をすると「患者の気持ちを分からんのだろう」と思われるかもしれないが、私自身、日常的に薬を飲むと言う思考が幼少の頃から全くないのである。それは、薬に対しての有害性や危険性、ベネフィットやリスク等々を天秤に掛けるような面倒臭い理屈云々と言う理由ではなく、自身の頭の中に存在しない思考であると言う書き方が正しいのかもしれない。
思い起こせば親知らずを抜いた時に抗生物質を処方され(たと思うし)、怪我をした時には多分点滴を出され、斜向かいのオッサンが煩いから眠れないと言ったら看護師のポケットから金ハルをコッソリ貰った程度で、それすらも飲まずに捨て、頚部痛及び頭痛に悩まされれば自己ストレッチでアライメントを治し、ギックリ腰になれば断食してみたりと、然程、自身の突発的な痛みに対して悩んだ事はない。取り敢えず、意識下としてはネガティブな環境すらも、それが仮にも自己に生じた症状すらも勉強の一旦であり、その過程を苦しみ悩みと言うよりも、如何様にネガティブをポジティブに変えるか、そして、仮にも今現在、何かしかの症状に悩んでいたとしても、この症状は何なのかと、変な意味で前向きな思考が働いているのだろう。
恐らく、根っからの面倒臭がりだから、取り敢えず自分で何とかしようと言う感覚が働く。恐らく、現場に立つ今でも、如何に早く治し、互いの負担を減らすかしか考えていないのも、面倒臭がりと言う性格だからなのだろう。
今でこそ患者やネット等、外からも中からも情報は流れ込むようになり、様々な情報を更に精査出来るのかもしれないが、「ここに」流れ込んでくる情報の多くは、自己ストレッチではダメで、看護師のポッケから出された金ハルを飲んでもダメで、断食してもダメだったと言う経緯も踏んでいると言う前提で話を進めていこうと思いたいところでもあるのだが、さて、実際はどうなのだろうと言う部分もある。
症状が中長期的に継続する、症状発症部位が広範に渡る、症状が憎悪する、症状の質が変化する(痛み⇒痺れ⇒脱力⇒知覚異常等)、等々の発生初期の段階で、「何をしたか」が1番の問題でもある、と言う考え方も重要である事には変わらないと思う。何で症状が憎悪したかを考えれば、然程、理由は難しいものではない。それは、病に対しての考え方1つ、薬に対しての考え方1つを持っていれば、その多くは早期脱出出来る症状群である事には変わらない気がする。
個人的には極々発症初期の段階で治療が行えれば、その多くは1~2回の受療で済む⇒そのインパクトでバビってくれる⇒大先生のイメージがつく⇒目の前にバス停やインターチェンジができ、線路が伸びて駅ができ、なんて妄想は現段階では妄想に終わりそうな気もするが、
症状発症因性の根底を針治療と言う極めてシンプルな作用機序しか持たない治療手段で症状が軽減~改善~若しくは中長期的に安定すると言う事は、日常に転がっている諸症状の大半は、仮にも小難しい病名が付いていたとしても、小難しい病態ではない事にも気付く。何故、年々定義が曖昧であり、年々定義が変動していき、年々新しい病名が付いていくかと考えれば、その答えは簡単に導き出せる。互いに分からないから定義は曖昧だし変動し、新しい病名が出来るに過ぎない。
とは言え、ここが1つ問題でもあり、「日常に転がっている諸症状」と言う段階では、「日常に転がっている治療手段で何とかしよう」と言う思考が働くのも、また分かる。仮にも時期と作用がマッチングしてなかろうが、皆はシップを貼り、薬を飲み、ストレッチをし、筋トレをし、「治らない」と言っている。早期回復に向けた努力は尊重するかもしれないが、別にコッチはサービス業をやっている訳ではないのだから、患者の行動を全て受容して全てOKしたところで「治らない」事実と過去を今後も継続させるような意思表示はしないだろう。
さて、これからの話は知っている人には極めて当たり前かもしれないが、何かしかの症状で悩んだ「個の患者」と言う視点で物事を捉えた場合で考える。その「個の患者」と言うのは、今、どのような状況にいるかは分からないが、「凡ゆる症状も、その延長線上には向精神薬の存在がある」と言う事を案外知らない。それも当たり前かもしれない。個々の患者は個々の視点、それは自身の症状からしか医療と言う存在を見れない節があるから、それも当たり前であり仕方ないのかもしれないが、
私は「個」しか見ている訳ではない。取り敢えずは凡ゆる症状を幅広く見ているつもりだが、その多くの流れは「凡ゆる症状の現行医療の治療手段の行き着く先は対して変わらない」と言う事に気付き数年経ち、そして凹んでもいるのは確かである。先ほどの通り、最後は向精神薬である。最後の砦は精神科であり向精神薬に行き着く。医療と言うのは、もう少し格好良くて惚れ惚れする存在だったのも妄想だったのかもしれないが、最後は脳みそを強制的に鎮静させるだけにしか過ぎない。それは治療ではない。
それが製薬メーカーや精神医療、そしてここいらを行き来する金や歴史の話や陰謀論的な話ではなく、それすらも退かして考えたとしても「凡ゆる症状も、その延長線上には向精神薬の存在がある」事には変わらない。私は昔、「向精神薬を処方するのは医学の敗北である」「患者の症状は医学の範疇を超えている」的な書き方をした。確かに、これらも間違いではないのかもしれないが、もう少し視点を変えて考えてみれば、それは医学に対して対立的な意見を私自身が根底に抱えていたから故の書き方だったのかもしれない。
では、それすらも退けて、現行医療の薬物投与のスタイルを考えた場合、明らかに「なあなあ」になっているのは事実である。さて、この「なあなあ」も決して悪い面だけではないと思う。人間は幸い、時間の経過に伴い、自然回復する可能性もある生き物である事には変わらない為、時間を「なあなあ」に過ごすのも良いとは思っているのだが、向精神薬が漫然と処方され続けた状態が「なあなあ」に続けば、リスクを被り続けるのは患者でしかない。
その為、「なあなあ」で過ごしても良い状態の人間と言うのは、薬物や栄養面等を既知した場合で無ければ初めて成し遂げられない治療手段でしかないのかもしれない。どうしても痛ければ、患者の視点は手術や薬や注射や点滴や代替医療のベネフィットばかりに向く。赤色や黄色の文字など、目立った色をしたワードや数値に目が行く。これらが捏造されているなんて知る訳もないし、中長期的な追跡結果なぞ、調べる人は稀かもしれない。
それでも尚、仮にも何度も痛めてきた突発的な腰痛であれば、患者自身も寝てれば治ると言う、過去の自己が編み出した治療手段がある為、目はいかないだろう。それは何故か。患者自身が過去に体験しているから凡ゆる外部からの情報に惑わされていないに過ぎない。これが仮にも未知の症状に悩まされた場合、不安や焦燥等々から、上記のような目立つワードに目が向いてしまうと言うだけに過ぎない。早い話が、症状発症から改善に至る迄のプロセスが既知か未知かだけの話に過ぎない。
その自然治癒のプロセスを邪魔するのが、患者自身の不安や焦燥かもしれないし、周囲の助言だったりするかもしれないし、その助言にノって行った先で出されたシップや薬や、ストレッチや筋トレの指示だったりするのかもしれない。なかなか「家で寝てろ」とは誰も言ってくれないようである。
肩を使えば肩は傷むし、腰を使えば腰は傷む。完全無欠な無痛で一生を過ごせる人間なんていない。但し、そのような夢物語を見ている人たちも案外少なくないと言う事も知る。でも、この意味を知らなければ病からは抜け出せないと言う事も知ってもらいたい部分でもある。病気で悩み、薬で悩んでいる時間なんて、折角生きているのに勿体無い。

一般的な症状因性として、侵害受容器の配置に伴い随伴する受傷起因によりA)侵害受容性疼痛、B)神経障害性疼痛、C)心因性疼痛等と、大まかに3グループに疼痛由来は分類されるものの、如何せん幾つかの根底的思考を除外しなければ、臨床上では治癒遅延を招きかねない事態にもなる。
A)単体、B)単体、若しくはA)とB)の混合型等のように、症状の惹起に関しての多くはオーバーラップしているものであり、普段は私も心因性と言う診断に対して懸念はしているものの、それは「心因性」と言う、何でもアリのゴミ箱に捨てられる症状群に移行している、若しくは画像所見上や血液検査上で異常が無ければ、即時的にC)に連れて行かれる現状に対しては危機感を示しているものでもある。
ストレートに心因性と言う表現が用いられずとも、思春期や更年期、老齢期、成長痛と称される類も含まれているものであると考えている。現代医療が得意とする日常生活で易発症の症状群と言うものは、あくまで急性期、炎症期、急性憎悪期と言われるタイミングであり、そのタイミングを外し症状が慢性化した場合、残念ながら多くはC)に移行「させられている」ケースが散見される。
取り分け、A)~C)に関しても、仮に損傷した場合とて、医療機関を受診する事なく日常生活に極めて影響がない程度の軽症例であり、自己解決出来るものであればカウントされないだけの事で、何故C)にカウントされる事になったかのプロセスと言うのは、非常に興味深いものである。
心因性」と言う表現は好まないが、「心因性疼痛」と言う事実は有ると思っている。受傷機序が不明瞭な疼痛性疾患や非疼痛性疾患の類は端からC)になる。それらの多くは体性神経を由来としない自律神経由来で発症するものが大半の為、患者の抱える内外因子の環境にて、自己の備える閾値をオーバーした場合、症状として自覚する事になる。
さて、C)を自覚する事は、人間としては当たり前だと思う。問題は、当たり前に発症するものであり、当たり前に自然治癒するものであると捉えられない場合かもしれない。最近は、「薬は毒だ」的なフレーズをよく見かけるが、更に前段階として考えれば、全否定はしないが、「薬と言う存在自体が無ければ、そもそも薬がどうちゃらとか考える必要性がない」と言う事である。
熱い!→冷やす。冷えてる!→温める。と言う、単純な図式を奪ってしまったのも、人間が積み上げてきたツケでしかないのだから、全ての治療は尻拭いであると捉えても過言ではないかもしれない。
とは言え、そのような既に過ぎた時代の仕方ない過去の話はさておき、現在の現象からスタートを切る事になる多くの患者群は、多くが薬を飲み、多くが手術を経験し、その多くが未だ症状を抱えていると言う理由を考察すれば、有害性や中長期的な将来性のリスクを高める手段だったに過ぎないのも分かるし、回復に運ぶ為の道程には、根底的思考の切り替えが必要にもなる。
「何でシップも貼って薬も飲んでるのに良くならないの」と言うセリフは全国どの地域でも聞く言葉だが、「シップを貼って薬を飲んでいるから良くならない」と言う思考に持っていく事が患者は出来るだろうかと言う部分に帰結すると思う。
これは単なる一例でしかないのだが、もっと分かり易く書けば「ダイエットしたい」と言いながらアイスクリームを食べているのに等しく、1度形成された思考と言うのは、なかなか切り替えられるものでもないし、幾ら資料提示しても分かってもらえるものでもない。
まして、そこに自身が過去に医療機関で告げられた傷病名に病態定義の誤りがある事、それは「画像所見上は誤診ではないのだが、画像所見上と症状が直接的な因子を持つと捉える解釈は誤認であり、症状惹起の機序は不成立である」と迄なると、患者側とて何だか面倒臭いものである。
それでも尚、非服薬群で、且つ純粋な整形領域や自然発症性の自律神経系症状であれば、治療ベッドに横になってもらっているだけで、患者の根底的思考はどうであれ、何とかなるものであるが、服薬群ともなると、そうはいかない部分もある。
「対処療法」と言う意味が分からなければ、その「対処療法」すらも患者によっては「治療」と言う誤認が継続し続けるし、その患者誤認の「治療行為」の継続が治癒に向けての逆行作用であり続けると言う事も、治療行為であると誤認し続けた場合、やはり治癒遅延は生じるものである。
更に言えば、薬物を介さない治療手段の中には、症状の由来が何であるかにより、やはりリスク高度な手段と言うのも含まれてくる。その症状由来が何であるかを理解する事が出来れば、薬物を介さないまでも、リスキーな治療手段は除外する事が出来るのかもしれないが、一般的には其処まで考えている患者はいるだろうか。それらのリスク高度な治療手段も多くの医療機関が備えており、点数加算の為に用いられている事も多くの患者は知らない。まして、既に何処かに症状を抱えているから「患者」なのであり、冷静な思考状態でもない。
故に、シップを何十枚も貼ったり、過量服薬に至ったりする。それは、自己知識内に於いて出来るだけの事を行った結果でしかない為に、それは否定してはならない事なのでもあるが、その有害性に対しても気づいてもらう必要性はあり、仮にもそのような思考を持った患者が目の前にいた場合、患者に行ってもらう事は、これらの根底的思考の切り替えが重要にもなる。
理解の一致が無ければ回復には至らない。A)もB)もC)も、生きていれば当たり前のように起きる。当たり前のように起きると言う事は、当たり前のように治ると言う事。当たり前に治らなくなった原因を探れば、自身に近しい存在だったりする場合も少なくない。
基礎と臨床の隔たりは、基礎の発展は治療と言う観点がなく、反面、臨床は治療を求め発展している。故に、時代の流れで極めて激しく移り変わり、生まれては消えを繰り返す理論を持つ生き物である。
時代の流れで移り変わる臨床ベースの理論を咀嚼し、昇華させていく「臨床→臨床」への発展型と、基礎をベースとして咀嚼し、昇華させていく「基礎→臨床」への発展型の場合では、どちらが底力があり、時代の影響を受けないかと言えば、後者になる。
糖質制限」や「無農薬」と言う概念を引き合いに出すと理解し易い。見方を変えれば、糖質摂取の概念や、農薬を使うと言う概念は、「基礎」か「臨床」かと言う概念である。別な言葉を用いれば、「製造」か「小売り」か、と言う分け方でも良い。何故、糖質制限や無農薬と言う概念が、時として有難がられるかと言う見方をしても良いかもしれない。
杜氏やメカニックは「基礎」か「臨床」かと考えても面白いかもしれない。根底的思考の土台が何方であるかで、時代は流れても影響を受けるか受けないかの差であり、影響を受ける事の善悪、受けない事の善悪はさて置き、仮にも臨床に於いての場であれば、様々な思考を巡らせ、汗水垂らして考えた手段とて一蹴されてしまう場合もあり、且つ鼻歌を歌いながら、全く異なるコースで10年20年先にでも進む事が出来る可能性を秘めている。
「可能性を秘めている」とは、世間一般では日進月歩で発達しているかのように見える医療とて、隣近所のジジババを見る限り発達しているのかと言う事、「可能性を秘めている」と言う表現は、発展途上でしかない裏返しである。勿論、医療選択は患者の自由でもあるし、医療を取り込むか否かも患者の自由である。故に痛いままでいるのか、痛みからの快方努力をするのかも自由なのであるが、仮にも後者とて快方されていないのが現状である。
医療は新しい知見を取り込んでもらう為、大々的にプロモーションを行う時もあるが、それも「基礎」か「臨床」か、と言う見方をした場合、どうしても初期はデータが少量の為、荒削りとなり、時代を追う毎に適応の幅が広がったり、副作用が追加されているものである。
かと言って、保守的が良いと言っている訳ではない。常々大きな転換を目指して動き続けているのは私とて変わらない。臨床上の大きな転換と言うのは、極めて月並みな表現かもしれないが、無駄を極力省く事が大きな転換を迎える一歩にもなる事を知る。治療はシンプルであればあるほど、データ構築が容易くなってくるからだ。
先日、侵害性疼痛、神経障害性疼痛心因性疼痛の3つの群、及びオーバーラップ型の概念に少し触れたつもりだが、あくまでこの分類分けは「基礎」であり、臨床の現場では然したる影響はない。
一般的に区分けしておいたほうが、治療上、行いやすいと言う問題だけで、単にNSAIDsかモルヒネ向精神薬か程度の差であり、よくよく考えれば、事実上、既存の現代医療的観点で捉えた分類分けでしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。
患者にとっては、これらの分類に分けられたところで、分けられたからと言って治るものでもない。この観点で考えれば、診断されたところで治るものでもないと言う図式でもあり、仮にも画像所見上、占拠性病変が認められたとしても、それが症状としての直接的因子で無ければ、占拠性病変に対して処置したところで治るものでもない。
しかし、これらの観点で日々医療は時間が流れている実情があり、何故、このような解釈の下で臨床が行われているのかを考える必要もある。そこには、人としての随分と汚い面しか見えてこないのだが、仮にも当時は事実だとして発表されたものも、何故、そのような事実を事実としてしまったかと言う話にも展開してくる。
ストレートな表現をすれば、当時の誤りを認められないまま時代が流れれば、その時代時代での有病者が高確率で異なる事実のまま、多大な影響を身体に受ける手術や薬物に暴露される事になる。が、それすらも有病者は分からない。一応は、それが事実として存在するからであり、真実であるか否かは患者も知らなければ施行側も知らない側面があるからだ。
一緒に写真を見ながら、「何か出っ張ってるから切り取れば治るよ」と説明を受ければ、「あーそうか」と解釈するのも、また、極めて自然な事だからである。これらを踏まえ、以下の患者が現れた時、私たちは何処にどのような目的で処置をし、回復を望むかと言う事が重要となってくる。
A)age 50 sex f
3年前、肩に激痛が伴い右上肢挙上不能となる。近場の整形でレントゲン、MRIで異常無し。五十肩と言われ、鎮痛剤と湿布が処方される。1年間の患者自身のリハビリの結果か、90度程度迄外転可となる。その後、鳩尾~右頸部前面へ掛けての痛みと、上腕外側及び内側~前腕外側中部までに痛みが出るようになる。肩関節の可動域も依然変わらず。三角筋中部及び、肩鎖関節周囲に動作時痛、安静時痛、夜間痛あり。内蔵疾患なし。精査済み。
B)age70 sex f
主訴 左右腰背部痛 左右下肢後面痛 左右膝部内側痛 
既往 糖尿 脂質異常 高血圧 難聴 頻尿 下痢 睡眠障害
5~6年前より腰部、膝部夜間痛あり。起床時激痛。日中夜間VAS10⇒7程度まで改善。10m程度の歩行で両臀部後面~大腿後面~下腿後面及び側面に痺れと痛みが出て歩行不能となるも、前屈及び座位姿位を1min保持で改善。仰臥位及び腹臥位にて、右大腿後面~右下腿後面に引き攣れが生じる為、横臥位のみ。x-rayにてL4/5に若干の狭窄があるが、手術する迄もないとA整形で言われる。両膝部に顕著なOAが見られ、僅かな段差も上がれない。膝部内側とは言え、関節部ではなく鵞足部に著名な疼痛。同整形で人工関節の置換術を提案されている。過去、腰部に各種ブロック、膝部にヒアルロン酸ステロイドを受けるも著効せず受診。
C)age18 sex m
主訴 大腿二頭筋短頭第2度筋断裂
2週間程前、サッカーの練習中に相手と上半身を接触。当該部位との直接的な接触はないが、接触直後より大腿後面の痛みに伴い転倒。その後、コールドスプレーで疼痛が緩和された為、練習再開。数日間、強い痛みは伴っていたが歩行は可能だった為に気にしていなかったが、大腿後面の内出血を第三者に指摘され整形外科を受診。第二度筋断裂と診断。その後、テーピングを捲くよう指示を出され、更に数日後、低周波やホットパック等の物療を受けるも、練習再開が出来る程の回復が見えてこず、他に方法はないかと受診。
D)age15 sex m
主訴 右第2趾中足骨脱臼骨折後に生じたモートン病及び後脛骨神経炎を示唆する症状。約6ヶ月前、野球の練習中にスパイクで踏まれ、第2趾中足骨脱臼骨折。ギプス固定。骨癒着確認後、練習再開。若干の外方転移が第2趾中足骨に認められる。数週間後、第2趾、第3趾と下腿内側中部(患者が示す部位は内果から腓腹筋内側頭に掛けて)に痺れ。モートン病及び後脛骨神経炎を示唆するTinel兆候。
E)age 60 sex f
主訴 肩こり
発症時期不明。僧帽筋上部繊維周辺に強い症状を自覚。業務時間の経時変化により、締め付けられるような痛み、及び冷様感が肩背部広範に自覚、両側頭部の頭痛、吐き気、めまい、両前胸部から手指に掛けての痺れ。小休憩時の姿位変化にて僅かに改善。湿布が手放せなかったが、光線過敏症を友人に教えてもらってから、怖くて湿布が貼れなくなり、他に手段はないかと受診。肩関節ROM制限なし。
F)age 30 sex m
主訴 アクセレーション期に痛む右肘痛
既往 右棘上筋腱部分断裂
現役引退後も社会人野球に所属していたが、数年前より投球回数に比例し肘の内側が痛むようになる。医師からは野球肘と言われ、ステロイド注射を数回受ける。他、湿布と鎮痛剤を処方されているが、効果を自覚出来ない為に受診。部分断裂箇所に今は痛みなし。右肩甲上腕関節前方下方転移が認められる。要はルーズ。神経障害、肩関節ROM制限なし。
G)age 60 sex m
主訴 右下腿裏の痛み
3年程前より長期座位姿勢からの歩行開始時より右下腿裏全般が痛むようになる。整形でMRI撮影をした結果、L5/1の椎間板ヘルニア(後方脱出)が認められるものの、異常箇所と発症箇所の整合性が取れないという事で、観血的治療及び保存療法は見送り。様子見となる。
例えばA)の患者の疼痛部位を見れば、鳩尾~右頸部前面へ掛けての痛みと、上腕外側及び内側~前腕外側中部までに痛みが出るようになる。肩関節の可動域も依然変わらず。三角筋中部及び、肩鎖関節周囲に動作時痛、安静時痛、夜間痛であり、これらのファンクショナル且つ安静時痛等の類、及び発痛部位に対しての由来を、何処と見て、何処を治療するかになる。
腕を揉んでも肩を揉んでも、まして仮にも腕や肩に針を刺しても治らない事は現場に出ている人間であれば直ぐに分かると思う。要は、既存傷病名を借りれば頚椎症性神経根症であり、椎間孔狭窄に伴う神経根部のインピンジメントにより急性憎悪する好発症例でもある。そうなると、処置する部位は見えてくる。
が、1つ問題がある。多くの患者は「肩と腕が痛いんだから肩と腕に針をしろ」と言う術者との心理的なギャップが生じる。仮にもそれで改善速度に変化するのだとしたら別だが、変わらないのだとしたら、それは無駄治療になる。無効治療ではなく、無駄治療と言う厳しい評価しか出来ない。それが「基礎」か「臨床」か、別な見方をすれば患者心理を満足させる為だけの「サービス」か。と言う話に帰結する。
ではこれを踏まえてB)も見てみよう。両腰部、両下肢、両膝内側関節裂隙の痛みであり、この患者に対しては両下肢や両膝内側が発痛部位だからとて、発痛部位に対しての処置で改善速度に変化が求められるかと言う問題である。他の症例とて同様であり、発痛部位は原因部位ではないものの、仮にも何かしかの処置をすれば発痛の有無問わず、末梢循環の改善には寄与出来るかもしれないが、それは臨床上に於いては意味のない事であると言う解釈の仕方である。
ではC)はどうだろうか。一見、受傷部位も明確な症例であるが、如何に早期回復を求めた治療を考察していけば、罹患部位に答えがない事を知る。D)~G)に至るまで、全てそうなのである。一見明確な受傷部位にも答えがない事を知る事が出来るだろうか。それは「基礎」的な解釈では受傷部位、罹患部位、そして処置部位と言うのも簡便に見えるかもしれないが、「臨床」となると、話は又、別になる。
踏まえなければならない考え方が臨床上に於いては重要になる。患者は「治る為にいる」と言う事であり、痛い場所なんて患者が一番知っている事であり、痛い場所に処置してもらう事が目的なのではなく、治る場所に処置してもらう事が目的なのであり、患者が求めているのは、基礎ではなく臨床である。
実は、このような非常に回りくどい話を何故しているかと言えば、治療内容を極めて削ぎ落とし、データを構築し続ければ、凡ゆる治療手段や保存的治療の脆弱性が見えてしまう。不誠実な書き方になるが、「それ、意味ないよ」と言う事であり、それは針治療の処置部位云々に限った話ではなく、凡ゆる改善を望む為の運動や体操だけでなく、アカデミック的に構築されているリハビリや電療、薬物治療や手術等々含め、見えてくるものがある。
しかしながら、真実はそうであっても、現実はそうもいかない世界でもある。何故なら、臨床はビジネスとプライドが凌ぎを削っている世界である以上、白も黒に変えられる。
神経根に輪をかませ、下肢痛が生じたら、否、脱分極を起こしたら、それが本当に輪をかませた力価に伴うものだったのか。考察しなければならないのは、そのような根っこからの問題であり、基礎がぶれなければ凡ゆる応用も簡便に可能になると言う世界も又、興味深く面白い。

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  ~針治療から病態定義の見直しを~