藤原航太針灸院

痛み・痺れ・麻痺・自律神経症状の難治例の検証と臨床

世間に可哀想だと思われている程、僕は可哀想だと思っていない。

大学の卒業論文の主題が、
身体障害を有する人間が発症する精神障害のキッカケと経緯のような内容だったと記憶しています。
内容なんて大したモノではなく、目の前の起こりうる出来事を書き連ねただけでした。
 
確か、ゼミから選出されて皆の前で発表するような機会を与えられたのですが、
当時から恥ずかしがりや&事故で留年した関係により、表に出たくなかったので
ゼミの担任位しか論文の中身なんて目を通していないのではないかと思います。
 
で、それがキッカケかどうか、世間では先天性の「知的障害者」と扱われる人間と接する機会がありました。
まだ、彼は年齢的にも就学するような歳ではなかった為に、周辺を取り巻く環境に立つ人間というのは、
親や親戚位なものです。彼は非常に愛されていました。
 
傍から見ると可哀想な位に。
 
彼は生まれもって「彼」であるのにも関わらず、
彼を取り巻く環境が「彼」を潰してしまう結果になっている事を誰も分かりません。
 
今となっては何となく親御さんの気持ちも分からなくもないのですが、
彼は自身が「知的障害者」である事を自覚していないのです。
 
彼を幸せにさせようと動く周囲の行動は、正しいと思いますか?
彼は、周囲の人間が行動せずとも幸せだとは言えないのでしょうか。
 
そして、彼自身は自分の事を可哀想だと思い、親に向かって幸せをねだっていたのでしょうか。
その後、そんな彼を題材にしたドラマが放映される事になりました。
 
視聴者に向けられているのは、
「彼が可哀想だと思い、必死に行動する親」であり、彼自身の感情は一切無視されたものでありました。
 
彼はそもそも自分の事を不幸せだと思っていたのでしょうか。
 
世の中、上を見てもキリがありません。そして下を見てもキリがありません。
上の人間の存在が近ければ陰口を言ったり嫉んでみたり、遠い存在であれば羨ましく思ってみたり。
下の人間を守りたいと思うエゴは強く働いてみたり。
 
もう10年も前なので、今はどうしているか分かりませんが、彼を彼らしく生きさせてあげたかったですね。

今、私は他人の身体に針を刺し入れるという行為を法的に免除され、
「治療」という行為を行っても良い人間なのかもしれません。
 
あの時から随分と年月も経ち、色々と私の環境も変わりましたので、
当時と今では言っている事も違うかもしれませんが、
 
一つだけ変わらない事は、
良くなりたいという気持ちを持てない人間は、前々から突き放していたことは変わりませんでした。
 
病にそんなに甘えたいのでしょうか。
 
病に甘えて周囲の同情の目を買う事がそんなに気持ち良い事なのでしょうか。
家族に心配される事が、同僚に心配される事がそんなに心地良いですか。
 
その病から開放されたら、どれだけ楽な日々が送れる事かを考えた事はないのでしょうか。
 
治りたいと考えた事はないのでしょうか。
 
人の足を引っ張り、自分と並ばせるか下に落とすような愚行を繰り返す日々と、
 
人の状況を引き合いに出し、安堵感を得るのは腐った人間の行動です。
 
そして諦める行為がそんなに光り輝いているのでしょうか。
 
最後には自分の身体だけが頼りになるという事を、早い時期に理解してもらいたいのです。
 
諦めない人間がいたからこそ、医学は進歩し続け、多くの人間が助けられてきました。
先のiPS細胞の件も、諦めない人間がいたからこそ。
 
自分が何かを諦めたと思った瞬間は、世界一格好悪い人間だと思うようにしましょう。
 
昨日までは駄目だった事が、今日になれば出来るようになる事も沢山あります。
きっと様々な方法はあるはずです。諦めないでいきましょう。
 
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 青森から鍼灸治療の意識改革を~