藤原航太針灸院

痛み・痺れ・麻痺・自律神経症状の難治例の検証と臨床

向精神薬由来症状/離脱症状の安全な取り組み方の検討と治療/症状改善速度と治療抵抗性の理由を考える

向精神薬が濃厚に絡む中枢神経症状を抱える症例が最もデリケートで困難を極める理由に、向精神薬由来と思しき精神症状の併発が全てを無にするほど強大な力を持つ事が1つの理由に挙げられます。脱抑制による精神症状は自己制御が出来ず、尋常ではない苦しみを患者に与え続け、周囲を大きく巻き込む懸念と、周囲に理解が無い場合、患者は更に悪循環に巻き込まれる状況は避けられなくなります。極力そのような事態は避け、安全に回復する方法は何度も検討する必要があります。

向精神薬は精神科や心療内科での処方は35%程度で、残り65%は異なる医科で処方されている統計が出ており、あらゆる症状の延長線上にほぼ確実に存在します。その為、誰しもが同様の立場に立つ懸念があり、それは肩こり腰痛とするカジュアルな症状でも同じです。

患者自身が実情を知るまで、気付くまでには多くの時間と負の経験を様々な角度から費やす必要があるかもしれませんが、今回は、その多くの時間と経験を費やし、実情を知ったタイミングから、どのようにすれば最低限の増悪で済ませ、安全に日々を送りつつ回復へ向かい、日常生活への復帰、そして社会復帰出来るかを考えていきたいと思います。

~ 「知ったばかりに」の弊害 ~

極めて悪質な性格を持っていると考えてしまうのは「知ったばかりに」なのですが、「知らない」方々のほうが多いのが現実です。私が普段より「向精神薬由来症例」と称しているのは、「現症は向精神薬由来ではないか」と患者自身が疑念を抱いている、または減薬や断薬等により、時系列的に現症が向精神薬であると合致している状態のみで、患者自身が向精神薬由来であると知らない場合、向精神薬の話はノータッチで治療を行っているのは度々書いています。

既知としていない方に今のような話をしても、私の頭がオカシイと思われるか混乱を生むのが関の山で、それは散々経験してきました。それでも尚、昨年のPMDAの一件や、今年の処方制限の一件など、ベンゾの規制は強まり続け、事情も浸透しつつあるのは幸いで、年々治療を行いやすくなってきているのは事実です。只、私のところには、向精神薬推奨派の誘導で具合の悪くなった人、向精神薬反対派の誘導で具合の悪くなった人、どちらのルートからも来ます。どちらのどのルートから来たかで、病名や諸侯群名の在り方、薬物に対しての捉え方や考え方のカラーが異なってくるのも1つの特徴かもしれません。

常用量離脱症状離脱症状の問題は、「知ったばかり」に具合が悪くなった方も少なくないのが現状です。是非はさて置き、知らずに同量維持で飲み続けていれば曲りなりにも仕事をし、生活を送り、人生を過ごしたであろう方々もいます。そのような混沌とした中、実際の現場ではどのようなケースが安定的に回復出来ているかを振り返る事も大切です。

向精神薬由来だと患者自身が認識してしまう事で減薬を焦る、早まる、一気断薬してしまう、過量服薬してしまうetc…、それもこれも具合が悪いから or 中長期服薬の危険性を知ってしまった結果でしょう。仮に薬を飲んでいたとしても、仮に常用量離脱症状離脱症状であると認識していたとしても、極端に日々の具合が悪くなければ早まる行為には至らないと思います。

その為、目指すのは先ず、飲んでいようと何だろうと、日々の生活を取り戻す事が大切だと考えています。元気になったら、今飲んでいる物に対して再検討する事が、安全な道程を辿れる事を多くの患者は教えてくれます。何年も何十年も飲んできた物を危険性を知ったからと言って、いきなり情熱全開で推し進めるのが最も危険です。最悪、自分のみならず他人まで死に引き込みます。以下に参考迄、幾つかのケースを挙げます。

1) 中長期的に同量維持で服薬し、現症を常用量離脱症状であると未知
2) 中長期手に同量維持で服薬し、現症を常用量離脱症状であると既知
3) 高頻度で増減、又は雑な服薬を繰り返し、現症を常用量離脱症状/離脱症状であると未知
4) 高頻度で増減、又は雑な服薬を繰り返し、現症を常用量離脱症状/離脱症状であると既知
5) 中長期服薬者が、何かの契機で減薬や一気断薬した途端、激しい症状が出た事に対し、離脱症状の存在を知らず、告げられた病名に納得
6) 中長期服薬者が、何かの契機で減薬や一気断薬した途端、激しい症状が出た事に対し、離脱症状であると既知

如何なる中枢神経症状を呈していても、どのケースが精神衛生も保たれたまま安定的に回復出来ているかと言えば、1)です。副作用や薬剤耐性、常用量離脱症状離脱症状の概念を知らず、既知としている群と同じ症状を出している方々が最も安定的に回復しています。もう一度書きます。向精神薬の副作用や薬剤耐性、常用量離脱症状離脱症状の概念を知らず、中長期的に服薬しており、症状は常用量離脱症状離脱症状と極めて酷似する中枢神経症状を呈しており、告げられた病名や症候群名等に信頼を寄せている群が、精神衛生も安定的に保ちつつ回復しています。それは何故かを知る事も大切かもしれません。

では何故、意外にも1)の群が安定的に回復するケースが多いのかも、理由を抽出する必要はあり、その理由が既知とした群の助けになる可能性もあるかもしれません。向精神薬はリスクの既知未知問わず、服薬という行為自体で同様の反応は生まれています。もしかしたら服薬初期は全くの無症候となったものの、中長期的に服薬期間も及べば、大なり小なり何かしかの症状を自覚する事になるかもしれません。

そのタイミングで、現状の症状に対してどのように患者自己が理解するかがターニングポイントになると思われ、向精神薬のリスクを未知とした場合、各種身体~精神症状を、〇〇病、〇〇障害、〇〇症候群で考えるかもしれませんし、向精神薬のリスクを既知とした場合、各種身体~精神症状は、副作用、常用量離脱症状離脱症状と考えるかもしれません。

この段階で大きく2群に分かれます。以下は未知の群と、既知の群と表現します。勿論例外も多数あるとは思いますが、傾向としては未知の群と既知の群の決定的な差は、服薬の仕方が安定的か不安定的かである印象を受けます。既知の群は、服薬している薬が症状発症の元凶であると知ってしまった為、服薬の仕方が安定しない傾向が高まります。「知ったばかり」に症状を落ち着かせようと、減らしてみたり、増やしてみたり、異なる性格の薬を追加してみたり、様々な情報を調べたりと深みにハマる傾向が見られます。

この段階で未知の群と既知の群、仮に同様な症状を抱えていたとした場合、どちらが精神衛生上含む、トータル的に安全かと考えると、「私は〇〇病だから、この薬を飲んでいるのよ」とする未知の群が圧倒的に安定傾向を示します。結論から述べると、具合が悪い事には変わりませんが、「病気だから薬を飲む」の思考が大前提にある為、それ以上のストレスがないからとも言えます。

既知の群はどうでしょうか。精神医療の歴史を学び、向精神薬の歴史を学び、病態定義に疑問を抱き、医療に怒り、向精神薬に怒り、飲ませた医者に怒り、飲んだ自分に怒り、どうにか薬を減らそうと服薬コントロールしと、精神衛生上、それほど健全とは言えなくなります。向精神薬に囚われの身になるのが最も治癒遅延を招いているのは、現場を見ていても拭い切れない印象が漂います。

治療反応性も踏まえた話で続けると、未知の群は「病気だから出された薬を飲んでいる」だけの為、多くは慢性的な中枢神経症状/自律神経症状を呈しており、治療後のリバウンド等も比較的穏やかです。既知の群は「服薬コントロールで現在の症状を何とか出来ないか」を実践してきた過去がある為、急性的な症状/経時経年と悪化し続ける状況を抱えているケースも多く、治療後のリバウンドも大きく引き起こされる懸念もあります。

回復迄には否が応でも治療を累積させる必要があり、リバウンドの有無、リバウンドの大小は、事前伝達を踏まえた上でも治療中断の大きな理由になります。それが未知の群であれば、リバウンドが引き起こされたとしても小さく、そもそも頭から薬を減らす意識もない為、累積治療により症状は安定性を高めていきます。

既知の群は、リバウンドを引き起こす確率も高く、大きく出るケースもある為、継続治療が困難な事態に陥る例も少なくありませんし、中長期的な観察をせず、症状が持ち上がった時点で突如として減~断薬を開始し、一層の症状悪化を招いたりと、慌しくなる時もあります。このように、未知の群と既知の群の現場での傾向を挙げてみると、未知の群が安定的に回復に運ぶ材料が揃っているのが分かります。

向精神薬の有害性や危険性は、知らないよりは知っているほうが100倍マシでしょう。しかし、知らない群が最もリスクなく回復している理由の1つに、「今飲んでいる薬を動かす気がサラサラない」に突き当たります。とっかえひっかえしてどんどん具合が悪くなっているように見受けられる未知の群もいるかもしれませんが、既知の群が少しでも症状に安定性を得る為には、未知の群の行為を参考にするのも良いのかもしれません。

具合が悪い時に減薬しても具合が悪くなるだけです。これを踏まえ考えますと、向精神薬に囚われた群は常に具合が悪いままの可能性が高くなります。向精神薬の危険性や有害性は既知とした上でも、そして各種身体症状や精神症状の原因は向精神薬であると既知とした上でも、漫然と飲み続けている未知の群が、有害性を知ってしまった既知の群よりも、曲りなりにも調子よく過ごせているのが現実です。

症状発症の根本的原因が今飲んでいる薬なら、今飲んでいる薬を動かす事で大きく状況は変わり、一方的に寝たきりまで持ち込まれるケースも少なくありません。減薬や断薬が目的となると、大なり小なりペースが速すぎて回復が追い付かないタイミングが訪れ、日々の具合の悪さに突発的な行為に走る人も現れ、命まで奪う結果に繋がり兼ねません。先ずは死を回避し、日常を取り戻し、社会復帰をするまでの体調を取り戻すには、飲んでしまったなら飲んでしまったなりでの、安全な手段を再考し続ける必要性があるのかもしれません。

そこに、いきなり元凶である薬を減らしてどうにかしよう、元凶である薬を減らせば何とかなるだろうとする行為はあまりにもリスキーな印象を受けます。減~断薬は誰でも出来る行為です。やろうと思えば今日でも明日でも出来るでしょう。その場合、「止めた」という心理的な満足は得られるかもしれませんが、身体~精神状態が即時的に満足のいく結果に繋がる事は限りなく低い現実が待っているのも事実です。

~ ステイで亢進したら減らすしかないという話題について、現場からの実際

亢進とは増悪又は増悪傾向、病状の進行状態や急性期を指すと思うのですが、具合が悪いときに減らしたら、もっと具合が悪くなるだけです。その具合の悪さは、減らした/止めたという行為の心理的な充足感を直ぐに打ち砕くほど強いかもしれません。個人的には、ステイで亢進してもステイが安全に見受けられます。

そして、それよりも大切な部分を考える必要があります。なぜ今、亢進しているかです。動かさなければ亢進し難いものだと私は感じています。動かして亢進した場合は、その後にステイしても亢進し続けるケースは多く見受けられます。何で「ステイ」という単語を使っているかも考える必要があります。前提が、漫然と飲んでいる群とは異なるからです。漫然と数年数十年に渡り同一量を飲んでいる方々で「ステイ」という単語を使っている人を私は知りません。只、結果的にこの方々も状況的には「ステイ」です。

ということは、「ステイ」という単語を現在使っている人は、過去に動かしている可能性が高い事を示唆します。今の具合の悪さは今のステイが原因なのではなく、少々前の過去に原因がある可能性も考えられます。改めて書くと、動かしたことが亢進の理由であり、ステイが亢進の理由にはなり難い印象を私は受けています。この経緯を踏んでいる場合、ステイしていて具合が悪くなるからと減らした場合、より具合が悪くなるだけかもしれません。

~ 安全性の担保を制度と回復例に求める危険性 ~

保険内だから安全、保険外だから危険、医療用量だから安全、医療用量じゃないから危険、弱いから安全、強いから危険、少しだから安全、多いから危険、逆も又然りですが、このような考えは見直す必要があるのかもしれません。現実的には1錠でも十分に危険な状態に陥っている方もいれば、100錠でも問題なく日常を過ごしている方もいる為、量や力価で今の状態は推し量れるものでもありません。様々な要因で1錠でも不穏を呈する方もいれば、その過程で不穏を繰り返し、理由はさて置き100錠になった方もいます。

飲む飲まないで言えば、初めから飲まないほうが良いのかもしれませんが、飲み続けている内に具合が悪くなってしまった場合にどうするかの安全性の担保は、誰と比較しても危なく、どんな誘導にもリスクがあります。個人体験の回復例は言葉にも力がある為、説得力も高く聞こえ、その事で多くの方は誘導されますが、エピソードは皆異なり、考え方や捉え方も異なる為、類似の境遇を抱えていた場合だとしても、同様の過程を踏んでも同様に回復しませんし、万人に通用する事もありません。

具合が悪くなれば、誰しも不安や焦燥から僕も私もと成功例に誘導され実践するものですが、実際の経過と結果はどうでしょうか。特にベンゾ離脱は未知既知問わず、他症例と比較しても特殊性が高い印象を持ち、その理由として精神症状の併発が挙げられます。そもそもが脳や脊髄の抑制を起こす為、逆転現象が生じる離脱期は、不安や焦燥、衝動などの強い精神症状も引き起こされ続けている懸念もあり、ある程度回復するまでは極めてデリケートに推移し、日々を送っている方もいます。

その為、外部からの誘導次第で突発的にアクシデントが起こり、それが命取りになる例もゼロではありません。その精神状態は脱抑制状態とも表現される場合もありますが、自己での抑制が効かず、尋常ではない苦しみを患者に与え続け、その苦しみは外部に向かって発せられ続けます。1つの回復例が万人に通用しない事は、健康問題、健康被害に限らずどんな事にも言えます。また、健康問題や健康被害で生じている状態や症状は、自己の身体から発せられる誰とも共有出来ない産物です。

その為、初めから誰にも頼れない、頼ってはいけない、頼ったら危険かもしれない、誰かと比較してもいけない、競ってもいけない覚悟も要りますが、これらの事情を知れば、頼れるのは自分のみという覚悟も持てるものです。そして、誰がいつ決めたのかも分からない流動的且つ不安定な制度や、時代で流行り廃りのある病名や障害名、症候群名、そこに至る病態定義の数々は無視し、今起きている原因や症状にのみ向き合い続けたほうが、ストレスなく回復までの安定性も高まると思います。

~ 同一患者の同一原因部位と推測される症状群の症状改善速度と治療抵抗性の理由を考える ~

症状発症部位は同一であると推測されるにも関わらず、何故、同一患者とて症状の改善速度が異なるのか、何故、治療抵抗性を示す症状や症例があるのか、何故、一時的にポジティブな変化を来しても易再燃性の例が生まれるのか、何故、改善したまま永続性を保てる患者がいるのか、簡単に書くと、何故あの人は治り、この人は治らないのか、何故この症状は治り、この症状は治らないのか、それらの課題に対し「個体差があるから」だけでは不誠実かもしれません。生きた人間を相手にする臨床は試験管で起きている事情と異なり兎角不安定な世界です。しかし、その不安定を僅かでも安定させる事が出来れば、一歩でも前に進めるのかもしれません。

そこには幾つもの取り組みが必要かもしれません。中枢~末梢問わず、罹患部位に栄養供給を齎す事で、経時経年的に段階的に症状が安定してくるのが一般的な経過となりますが、そもそも今迄動かなかった物(この場合、人が訴える症状)を動かすには、治療サイドは強く長い期間に渡る作用を常に追い求め続ける必要性と、既存解剖や生理に則った病態定義の知識を一旦ゼロにする必要があり、得た知識を積極的に無視する、無駄であったとする姿勢を取らなければならない恐怖と日々向き合う覚悟が要ります。

それ程迄に原因不明、異常なし、病態定義が曖昧且つ年々変わる病名や精神障害とされる層で溢れているのが現実で、何とかしなければ後がない恐怖は術者側も同様で、何物にも頼れず、頼れるのは患者からの情報だけの現実があります。それでも尚、何物にも頼れず、頼れるのは患者からの情報だけで行い続けていると見えてくるものもあります。それが結果的に根本的な病態解釈へと繋げられる側面もあり、消去法的に取捨選択された有用な情報が現場では集まり易い側面もあります。

先ずは参考までに以下に5症例挙げます。

a) age 60 sex f
両耳感音性難聴(60db) 左顎関節症様状態 左顔面運動麻痺 左顔面部全般の疼痛 左奥歯に釘を刺されたような痛み 頸部前屈により強い目眩 左側頸~左肩甲背~左前胸、左上肢~左手指に至る痛みと痺れ 両下位腰椎の動作時痛及び左下肢後面痛及び左下腿外側痛 両足底知覚鈍麻 他

b) age 30 sex m
両耳閉塞感 両耳膨張感 両耳感音性難聴(スケールアウト) 眼痛 羞明 嗅覚及び味覚障害 両側頭及び顔面痛 両側頸及び両肩甲背痛 他

c) age 60 sex f
副鼻腔炎様症状では説明出来ない程の広範囲に及ぶ顔面と鼻の詰まり 坐位~立位~歩行時問わず背部に重さを感じる コートが極端に重く感じる 頸部後面及び背部を後ろから引っ張られている感覚 何処までも床が沈み込む感覚による歩行恐怖 直立位の場合、左足を軸としてクルクル回る 両側及び両後面頸部疼痛 他 

d) age 15 sex m
横紋筋融解症の既往を理由としてか、抗重力筋を主とし、動作時痛を顕著に自覚 立位~坐位~臥位問わずの揺れ 頭頂部から足趾に至る全身の知覚鈍麻(温冷痛覚の全脱失とは異なり、半脱失に近い感覚) 両足関節より遠位に掛けて常時痺れ 他

e) age 15 sex f
数年来、36℃後半から37℃前半の微熱が持続 頸部前屈により何百メートルも垂直に急降下する感覚 手関節より遠位、足関節より遠位に振戦 頸部から下肢に渡る知覚鈍麻(顔面部、頭部以外の部位を触っても、全て感覚が遠い印象を受ける)他

どの症例の症状群も末尾に「他」と記載したのは、好発例となる迷走神経由来及び延髄部と思しき症状群の大半は未記載としています(今後の課題としては、年代や性差問わず、延髄由来の症状が何故多いのかも考察する必要はあるかもしれません)。

呼吸障害や息苦しさ、随伴する痺れ、心窩部痛や動悸、胃腸障害、膀胱直腸障害や、青斑核由来や網様体賦活系の症状群、球麻痺(仮性含む)様症状群、興奮性や攻撃性、易怒性、衝動性、焦燥感、不安感、うつ状態、不眠、絶不眠、中途覚醒入眠障害の類等まで記載するとキリがないので記載していません。また、症候群名や症状群名、診断名等々も記載していないのは、名称を得た事が治療/回復に繋がらない意味を、私に以上に患者が既知されているからです。

全例、治療歴は大抵の既存機関で適宜治療を受けての現在です。手術や抜歯等による積極的治療、又は消去法的に用いた治療他、鎮痛剤や向精神薬ステロイド、tnf-α阻害薬等の薬物治療に抵抗性を示しています(常用量離脱や急激な減~断薬による離脱症状も含まれているでしょう)。

只、現症が自然発症や術後後遺症、鎮痛剤やステロイド向精神薬の常用量離脱や離脱症状例でも、また、病名や障害名で治療内容が変わる事もありませんし、如何なる原因で生じていても、中枢神経症状が惹起されていれば中枢神経に栄養を運ぶ対策、末梢神経症状が惹起されていれば末梢神経に栄養を運ぶ対策であり、細々書いている割にはシンプルです。

そのような中、極めて悪質な性格を持つ向精神薬により害を来した症例が、経過も極めてデリケートに推移する為、何年も考察を入れているのですが、症状「のみ」で見れば、他の薬物、毒物、外傷、腫瘍、感染でも起こる為、薬物の性格によっては多少の特徴はあれど、向精神薬「だから」こうなるものではありません。

上記症例群は中枢神経症状が多く含まれた患者群をピックアップしました。中枢神経に損傷を来した場合、多くは多種多彩な症状を呈し、未知且つ多彩に表現される症状群に動揺を示す方も少なくありませんが、中枢神経症状が単独で起きる事は先ずないでしょう。12本ある脳神経を取り上げても(脳神経は解剖的に末梢神経とされていますが、今は中枢神経として考えます)が単独で損傷を来す例は殆どなく、大概の症例は複合します。

大脳皮質を皮切りとしたループの経路で点在的に損傷を受けていても多彩な症状を呈すると考えられますし、当該神経に腫瘍による浸潤や圧迫の問題でも多彩な症状を呈すると考えられます。感染や脳炎であれば尚更ですし、向精神薬であれば、脳や脊髄の広範に反応が渡る為、単独損傷(単独症状)は寧ろ不自然です。

上記症例を参考に症状を羅列しても、同一患者でも様々な部位を原因として発症している事が分かります。嗅神経、視神経、蝸牛神経、前庭神経、三叉神経、顔面神経、舌咽神経等々の脳神経のみならず、大脳及び小脳由来等が目立ちます。横紋筋融解症の既往を持つ症例もあり、当該部位の筋肉が融け、柔軟性が欠如したような動作時痛を抱えるケースもありますが、過去の事態は深刻であったものの、症状発症由来としてはシンプルかもしれません。

2年程前に、現在の症状が自然発症性か薬剤性かを簡便に見極める方法はないかと推測論を書いた事があります。改めて簡単に書くと、例えばベンゾが絡んだ症例は、薬物そのものが大脳や小脳等に反応を来す為、当該部位から症状を来すと推測するのは容易いですが、自然発症では延髄や橋、中脳となる脳幹程度(厳密に言えば内分泌由来の症状も伴うので間脳の影響もありますが、薬剤性でもあるでしょう)迄の症状で留まる傾向が特徴かもしれません。それらを以て、自然発症性なのか薬剤性なのかは判断が付きやすいものです。

では何故、同一原因部位である中枢神経由来の症状群も、各々で症状改善速度が異なるかの考察も大切です。そこにはやはり、受傷度の浅い深いの問題、受傷部位にどれ程の持続的なダメージを加えているかの違い、先天的構造的な問題による易損傷部位の存在の問題、過去の事故や怪我等々による構造的問題を抱えた事による、易損傷部位の存在等が考えられますが、推測の域を出るものではありません。

只、これらは中枢神経症状に限らず、既に構造的な問題を抱えている肩や腰、膝関節にも同様な事が言え、また、脊椎そのものの構造的な不安定は経年変化を来すものである為、中枢神経症状に限った事でもありませんし、易損傷部位に負担を掛ければ、如何なる部位よりも易損傷部位に症状自覚を来すのは、考え方によっては自然です。

治療的側面で見れば、未だ神経細胞が生きていれば回復し、既に神経細胞が死んでいれば回復せずと、結論としては其処に行き着きます。細胞が死んでいる場合、治療をしても良いも悪いも何の反応も生まれません。しかし、人間は如何なる状況にも適応しようとする生き物で、中枢~末梢問わず、死のうとしている細胞には酸素の豊富な血液を多量に流し込む生理的反応を備えており、血管を新生し、死のうとしている細胞を生き返らせようと懸命に働き続けています。それらを後押しするのが早期回復への実現へと繋がると思われます。

結果、整形領域的疾患の脊損症例や、脳外的疾患の脳血管障害後の症状回復も得られるケースも出てくるのでしょう。脊損例は受傷部位の瘢痕組織さえ除去出来れば更なる回復も見越せるのかもしれず、既にこの課題に対して、観血的手段、又は薬物で溶かす手段を積極的に行っている群もいるので、更なる展開も期待出来るかもしれません。

話は戻し、如何なる多くの症状も発症時期が長い=損傷を加えている期間が長い=損傷度は深く広範化する、と考える事は容易く、実際に治療を行っての経過を追跡しても見えています。しかし、上記症例群の同一患者で、同一原因部位と推測される中枢神経由来の症状群でも、回復する症状もあれば回復しない症状もあり、大きな課題となります。

a) は、内耳神経由来と思しき両耳感音性難聴(60db)は回復していません。他症状である顔面神経、三叉神経、前庭神経又は(椎骨~総頸動静脈含む)脳底動静脈由来、左頸腕神経叢由来、左下位腰椎神経叢由来は、当初は不安定ながらも累積治療に伴い安定的に回復しましたが、両足底の知覚鈍麻の回復には1年掛かりました。

b) は、視神経(又は大脳基底核由来症状の随伴例?)由来と思しき羞明は回復していません。他症状である蝸牛神経、三叉神経、嗅神経、舌咽神経、両頸腕神経叢由来は回復しました。蝸牛神経由来は若干の再燃傾向はありましたが、治療反応性が良かった印象を持ちます。

c) は、幸いにも全て回復することが出来た模様ですが、時折アカシジア的な症状を訴える事もあり、未だ全回復しているとは言えません。また、訴えた症状群も、中枢神経の何処に損傷を来せば表現されるのか判断が付けられない症状群ですが、恐らく大脳や小脳を由来とする運動失調や平衡障害、また、(椎骨~総頸動静脈含む)脳底動静脈由来が伴っていたのかもしれません。

d)  は、両足関節の痺れは軽減されたとの自覚は得られたものの、完全に消失していません。他の症状は回復したようです。全身性の知覚鈍麻や両足関節の痺れは、恐らく延髄か大脳由来かと考えられますが、それが正しいのか間違いなのかの判断は残念ながら分かりません。

e)  は、継続する微熱を皮切りに早期解消されましたが、頸部から足底に掛けての知覚鈍麻は回復しませんでした。その後の諸症状の回復迄には1年以上掛かりました。

上記症例以外でも「何となく」な感覚でしか言えませんが、脳幹や間脳由来の症状は、回復するに至るまで極めて不安定に推移します。その理由の1つに、脳幹や間脳を由来とする症状群は、身体~精神~環境ストレスに大きく変動を来す事が挙げられ、また、例えばベンゾ離脱症例であれば、ベンゾ結合を外す薬が極めて身近に存在する為、既知未知問わず用いる事で、一過性ながらも脱抑制状態を増強させる懸念もあるでしょう。

余談ながら、辛辣に聞こえるかもしれませんが、向精神薬を服薬している患者は、いざ頭が痛い身体が痛いと具合が悪くなった時、手を伸ばせば届くレベルの薬を安易に飲む傾向があり、それらの薬で脱抑制を増強させているケースが多々見受けられるのも現状です。話は戻し、反面、大脳や小脳由来は、都度の治療も極めて変動自覚は乏しく、仮に改善傾向を示したとしても、地味にしか改善自覚を得られませんが、再燃自覚が得られ難い特徴があります。

例えば上記症例には細かい症状群は含めていませんが、認知機能や書字機能の低下は多く見受けられるものの、大抵改善していると評価をするのは患者自身ではなく患者家族等の第三者となる為、患者本人も気付かない例も少なくありません。

もう少々簡便に書けば、前頭葉頭頂葉、側頭葉、後頭葉の大脳皮質と言われる部位、諸々の大脳辺縁系と言われる部位や、諸々の大脳基底核由来の症状群は一度回復すると再燃し難く、延髄や橋、中脳、視床視床下部由来の症状群は、一度改善自覚を得ても、再燃感が強いのかもしれません。只、これらも推測の域を超えるものでもありません。そもそもの既存機能の説明が正しいとも限らないからです。

仮に再燃率(不安定性と表記したほうが適切かもしれませんが)の高い部位で再燃したとしても、基礎的身体状態が向上してくれば、仮に一時的に悪化自覚を覚えても最小限で済むかもしれませんし、悪化自覚も以前と比べ、短時間で済むかもしれません。これが如何なる患者に於いても共通している傾向かもれません。

では今度は、もっと基本的に、何故、人は針治療というハードルの高い治療を求める事になるかを考える必要があります。人は症状を抱えると短気になります。短気では長期的な治療は向きませんが、細胞の回復は短期では済みません。その為、多くは手っ取り早い手段から選択し始めます。しかし、其処から見えてくるものもあります。

結果としてわざわざ針を刺されにくる迄は、相応の治療と、相応の期間を既に経過させている事です。既存患者が別件で発症したケースは別ですが、多くは1年2年に渡り症状を抱えている人もいれば、5年10年と症状を抱えている人もザラです。針治療は、罹患部に対して細胞の栄養となる血液を非日常的な量で流し込み(続け)、細胞の回復を見越す手段でしかないと考えています。

勿論、治療由来の疼痛もゼロではないですし、刺傷は必ず生じる為、一過性ながらも内分泌の変動も来す事もありますが、それ事態が回復に寄与するものではないでしょう。あくまで罹患部に対して強い栄養供給を見込み、即時的な鎮痛作用等々の結果ではなく、中長期的な将来に寄与する治療手段と捉えています。

一般的に、1年2年経過した症状群や、5年10年経過した症状群は、既に治らないレッテルが貼られがちです。しかし、針治療で症状に変動を来した場合(先述の通り残念ながら変化を示さない患者、症状もありますが…)、それは根本的な病態そのものが、各々の細胞の低栄養状態から派生した症状群である事に他ならないと考える事も出来ますし、原始的な表現をすれば、回復出来るか否かは、細胞の生死の差になるのでしょう。

その生きているか死んでいるかを判定するためにも、「やってみなければ分からない」という不誠実な答えしか出来ず、現状の答えはやはり「分からない」に行き着きます。やはり、「人が治るか治らないかは治療してみなければ分からない」のかもしれません。しかし、「できない」わけではないので「ない」わけでもありません。「できない」「ない」は、要らぬ制度に依存しない限り生まれない言葉です。その為、「分からない」ながらも遣り続けるしか道はないのかもしれません。

結局答えは「分からない」に行き着きましたが、各々の症例には傾向と特徴はあるものの、皆が既存と同一の経過や結果を示す事はありません。しかし、少しでも穴埋めが出来れば、また異なる世界が見えてくるでしょう。

~ 精神症状の惹起を無益と捉えず、希望に繋げることは出来ないだろうか ~

冒頭では向精神薬が引き起こす強大な精神症状について軽く触れましたが、向精神薬の有無や関与、症状の大小問わず、精神症状は身近に存在します。その精神症状の惹起を無益と捉えず、有益なものと捉える事が出来ないかと常日頃考えています。

人は重篤な症状を抱えた場合、事態から逃避する為、精神症状を併発する傾向があります。主に不安や焦燥、恐怖、強迫、解離辺りでしょう。時に患者本人のみならず、患者を想うあまり、最も近しい家族も発症し、悪循環は生まれ続けます。強い精神症状を抱えた場合、患者は個人で受療する事は殆ど不可能で、多くのケースは必ず付き添いがいます。

その付き添いから発せられる言葉の節々は、まるで我が子を別の家の子のように表現している例も見受けられます。自分の家の子が何かしかの理由によって症状を抱えた場合、それは子を投影したかのような話素振りになっても自然かと思うのですが、子の症状の長期化は、親の解離を生む要因となるのかもしれません。

又は、小難しい話はさて置いたとしても、精神症状は互いの感情を揺さぶる事で、常に切迫した時間が続き、対応する人間の怒りを買い、不満を生み、経時経年とキャパシティを狭めていく要因となります。このように、精神症状の長期化は社会との途絶のみならず、家庭内での孤独を生み、崩壊に導かれる例も少なくありません。

症状は主に身体症状と精神症状の2つに大別されますが、精神症状が優位に立つ場合、治療自体が困難か、又は治療が行えたとしても継続が困難です。治療に対してのイメージか、患者の訴える症状の大半は身体症状ですが、精神症状が併発している例は珍しくありません。

精神症状が併発していると判断するのも烏滸がましいかもしれませんが、言葉の節々や視線の送り方で、素人玄人関係なく分かるものです。身体症状及び精神症状も、有限の身体内部が原因である以上、如何なる病名や障害名が付いていたとしても改善の余地はあるかもしれませんが、如何様にでも考える事が出来る精神が障壁となるのは確かです。

先ずは幾つかの問題を乗り越える必要があります。身近な話であれば、私達は酔っ払いに対し指摘しても、肯定する人はどれ位いるでしょうか。多くは否定します。それと同様、治療の障壁となる精神状態が不健全な患者に対し、精神状態の不安定さを指摘しても大半は否定されます。病識がない、否認の病の一言で片付けるのは乱暴ですが、精神症状は自覚が無い場合が多いのは事実です。

自覚が無ければ非日常的な症状ではなく、日常的な状態です。日常的の場合、それは症状とはなりませんが、今の日常が不健全であり、生活を営めない事実に自己が理解しているのであれば、今の状態は症状であると把握してもらう事も適切な対応なのかもしれません。

もう1つの問題があります。疾病には利得が生じている側面があります。病気を理由に、社会的に保護される場合、精神科医向精神薬に依存関係を結びます。病名を保守する為、情熱を注いでいる患者個人・団体もいます。病名の肩書きが剥奪される事で、自尊心が奪われる人がいます。

そのような人が、病名も障害名も払拭したい方々や、四の五の言わずに回復したい方々の足を尽く引っ張ります。あらゆるハードと依存関係を結ばず、ひたすら回復を目的とし、社会復帰を目指したい人もいます。私が対応しているのは後者のみで、前者はそもそも治療意志が存在しません。

幾つもの障壁をクリアした上でも、精神状態の不安定さは治療の邪魔になるのは事実です。さて、私は此処で邪魔と書きました。私にとっては自覚なき精神症状は、治療を行う上でも極めてネガティブな材料となりますが、このネガティブをポジティブに変える事が出来れば、大きな発展に繋げる事が出来るのではないかと考えています。私は、強い不安や焦燥等を抱える患者と会い、どのような声掛けで変わってくれるかと試み、無残に惨敗してきました。

それならば、全く異なる方向からアプローチする必要性がある、と考えるように至るのが自然です。人間味はないかもしれませんが、精神症状の訴えには無視をするのも悪くないかもしれません。話を聞いたところで変わりもしませんし、如何なる答えを返しても変わる訳でもありません。それならば、何とかしようと考えるだけ無駄であると捉えます。

精神状態が悪い時でも、私は患者の親でない以上、感情を顕にする事は少なく、また、人間とは気を遣ってくれる生き物ですから、便宜上、その時は聞いたような素振りを見せてくれますが、それが症状を改善させる事は一切なく、会話で人の病的な精神を改善させる事は無謀であり、患者が素振りを見せてくれた事に対し、優越感を得る為のエゴイスティックでありパターナリズムな感情であったと捉えます。

カジュアルな症状に対し、鎮圧や鎮静、抑圧や抑制目的で向精神薬が処方され続ける弊害を数年来に渡り掲げてきたつもりですが、先ず知る事は、薬物云々以前に、人は人がいるから症状を発症し、向精神薬を服薬する契機を作り上げてしまった現状を猛省する必要があると捉えます。

人による言葉や視線、あらゆる行為行動でも、人は十分に鎮圧や鎮静、抑圧や抑制され、その事で人は症状を引き起こし、一方的に悪化し、薬物を服薬するに至った経緯を反省する必要があります。暴力、暴言、大声、陰口、嫉妬etc…、人間の感情とは何処までも汚れる事ができ、それらの行為も度が過ぎれば社会的に許されない為、社会は、会社は、学校は、家庭は、合法薬物によって真綿で首を絞める行為に走り、己の器の小ささを責任転嫁し、相手が病気であるから私は健全であると正当化していると捉えます。

身体症状に於ける一般的なリハビリの概念で例を挙げます。例えば、脊髄の前角細胞が損傷した場合、運動麻痺や痩せが起こります。麻痺が生じている部位は運動が伴えない為、筋力トレーニングは不可能です。不可能な状況にも関わらず、無理難題を患者に強き、孤独とストレスを高めているのが現実です。

ストレスとはあらゆる物事をストレスと捉えます。拍子に後角を損傷し、痛みや痺れも伴うかもしれず、あらゆる孤独とストレスは無駄な症状まで膨れ上がらせます。動く訳がないのであれば、動く状態まで持ち上げる必要性と、前角細胞の回復を得てしてトレーニングを課す事が誠実です。

それと同様、自己制御が難しい精神症状を自己の意識で変える事は難しく、また、外部の人間の声掛け程度で変わる事も難しい。脳の機能/器質的損傷が声掛けで治るなら、此処まで向精神薬は氾濫していないと考えます。

一度は全てを無駄であると排除した上で、新たなアプローチを考える必要もあり、そのような中でも、ネガティブな精神症状をポジティブに利用する事が出来れば、また異なる手段も見い出せると思います。未だ模索の域は出ませんが、治療以前の問題で躓く例を僅かでも少なく出来れば、それに越した事はないでしょう。

~ 病名や障害名、症候群名の拘りや縛りを捨てることは出来るだろうか ~

向精神薬由来症例では度々投げかけられる言葉があります。一番多いのが「薬を飲んだこともない健常者が私の気持ちなんか~」です。確かに私は向精神薬を飲んだことがありませんが、それよりも相手に対して健常者と投げかけるということは、投げかけた側は障害者なのでしょうか。障害者意識で生きているのでしょうか。障害者と対義語の言葉を相手に投げかけるということは、障害者である自覚で日々を生きているのでしょうか。

障害だとか病人だとかを意識しても良い事は全くありません。確かに具合が悪ければ全てが不便になります。人間とは何歳になっても健康状態次第で人生というのは丸っ切り違うのかもしれません。まして向精神薬を由来とする症状は誰からも理解されず、症状も共有できない悔しさや苦しみ等も沢山あると思います。それらが募りに募って投げかけるのかもしれませんが、私はそもそも健常者だとか障害者だとか、病人だとか患者だとか(分かり易いように用いますが)と考えていません。

ベンゾで具合が悪くなったのであれば私にとっては「ベンゾで具合が悪くなった人」程度で、そこに障害だ病気だと当て嵌めても何の得もありません。障害だ病人だで優遇出来る何かがある訳でもありませんし、此処は障害や病気とやらを何とかしようとする所です。自分を障害者だ病人だ患者だとする見方をせず前向きに考えることが出来たら、僅かでも気持ちも楽に日々を過ごす事が出来るようになるかもしれません。

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イメージ 1  ~針治療から病態定義の見直しを~