藤原航太針灸院

痛み・痺れ・麻痺・自律神経症状の難治例の検証と臨床

「医療の限界」とは「その個人」の限界


基礎学問が数十年にも渡り殆ど不変である事は、中身が事実に限りなく近い状態であり、変えられる余地がないからである。故に、時に基礎学問に新知見が見られた場合、大きく軸は転換を始める。その一方で、臨床学問は、現場から構築された要素が高い理論理屈となり、数年~数十年で変化していく。そして多くの枝葉を持つ。その理由は何故かと考えた事があるだろうか。日々、今か今かと若い世代の臨床家が現場を通じて構築してきた理論を世に知らしめようと必死ではあるが、残念な事に既に偉い立場にいる人間が世に出した既存の理論は、仮に事実だろうが事実でなかろうが強固となり、そう易々崩れる事はない。そして、これらの創られた事実が崩れる瞬間というのを又、ご存知だろうか。答えはこの場では書かないが、それは余りにも呆気ない理由である。
 
医者の肩を持つ訳ではない事を前置きとして書くが、医者は雁字搦めの中で治療を行っている。行わざるを得ない理由があるからである。天井がある上での縛られた治療内でしか患者と対峙出来ないからである。それを世間一般では保険治療上、ガイドライン上の問題と言い換えれば理解は早い。積極的に患者と対峙したいタイプにとっては息苦しいだろう。そして、薄々は自身が感づいている本当の事実も、場合によっては捻じ曲げなければならない時もある。それが何れ程までにストレスに曝された心理状態であるかは想像に絶するものである。そのようなストレスは患者から言われる苦言等ではなく(患者からの苦言は信念がある人間なら寧ろ心地良く感じ、成長に繋がる)、同僚や上司との問題、保険上、ガイドライン上、経営上の問題にである。では、開業針灸師はどうだろうか。http://www.chiryouka-shigoto.com/report/?p=2856の通り、ある意味、自由なのである。自由というのは治療リスクさえ考慮した上であれば、幾らでも青天井で作用を強化させる事が可能であり、早期回復を求む患者ニーズを叶える事が出来る可能性を秘めているのである。
 
しかしながら、何処まで皆が知り、理解しているかによっても大きく左右してくる問題もある。そもそもの「治る」という意味の根本的思考が異なれば、患者は常に相反し続ける作用を良きものとして取り込む傾向が高いからである。身近な例でとして、患者は針治療を受療しながら他の医療機関で薬を貰って飲んでいるケースはよくある。時系列的に明らかに針治療で種々の症状が軽減~改善~完治したとしても、その事を医者に告げれば「針治療で治るはずがない」「あるはずがない」「ありえない」と述べられる。その次に出てくる言葉は「症状が改善しているのは薬が効いているからだ。薬を飲み続けなさい」である。如何にも医者っぽい対応であるが、一般的な遣り取りだろうし、私以外の術者も幾度となく経験していると思う。例えば、針治療で症状が改善したとしたら、同一症状の改善を望み服薬していた薬物は有害となる。数値化出来る検査であれば尚の事把握し易い。もう少し柔軟性のある思考があれば、針治療の効果を認め、薬の減薬~断薬を経て治療終了を告げる。得てしてそのような医者はウチの患者だったりもするのだが。針治療の作用なぞ極めてシンプルな為に、説明をすれば理解ある人は幾らでも理解し易いものなのだが。理解不能な状態に陥っている場面が後を絶たないのは、東洋医学というオカルトちっくな理論を用いる私達の業界の責任もあるだろう。
 
たまに私が医者を敵対視している書き方をしているからか勘違いしている人もいるようだが、意外と医者と仲が良かったりもする。それは患者に対しての治療理念上で免許の垣根を越えて仲良くなっているだけである。私を嫌っている人間は、どんな病名を抱えていようと「現時点」でオピオイド系鎮痛剤や向精神薬に甘美している薬物中毒患者だろう。前にも書いた事だが、これらの中毒患者は幾ら様々な資料を提示しても信じない時期である。人間は現時点で自身が良かれと思い取り入れている物事に対して他者にコンサルトする際も、都合の良い事しか受け入れ難い生き物であるから、都合の良い事を言ってくれる人間に対してしか靡かない。(これが強い副作用や常用量離脱が頻発するようになると、心身の状態が悪くなり過ぎ、その時に資料を提示しても読む集中力すらない為、結果的にどの時期でも理解は難しいのだが…)。そんな患者からも時折「針ってクセになるんですか?」と聞かれるが、「その薬はクセになってても良いんですか?」。名指しで行くなと言い散らかしている精神科医や脊椎外科医がいる事も知っている。針治療をしている事を告げればプライドが傷つくのか、理由不明で検査入院と称し、暫くの期間、患者を拘束してしまう医者がいる事も知っている。普段は手術を渋っているにも関わらず、針治療をしている事を告げると簡単に手術をしてしまう医者もいる。このような気持ちは向こう側の立場で考えれば分からないでもない。何故か分かるだろうか。ステンレスの針を刺す程度で治ってしまったら立場が無くなるからである。過去に築いてきた栄光や苦労が全て徒労となり、面子が丸潰れになるからだ。
 
とは言え、医療選択は自由意志によるものであるから、これらの件に関して抗議する事はないだろう(散々痛い目に遭って本人が気づいてからでなければ治癒に運ばないケースなど腐る程ある為、患者自身の意志がフラフラしている内は何をやっても無駄)。患者を拘束して自分の名前も言えなくなる程に向精神薬で狂わせてから私の所に再度押し付けない限りはだが。余談ながら、仲良くなれない人物達とは、薬漬けにして中長期的な将来を遮断し、抜くに抜けない薬を散々浴びせた末、副作用なのか離脱症状(若しくは常用量離脱)なのか元々の病なのか新たな疾患なのか謎めいた状態にさせ、最後は精神疾患患者として見放す医者と患者家族である。これが仮に高齢者だった場合、高齢を理由に責任は擦り付けらる。他の年代であれば心因性か気のせいか更年期か思春期か精神疾患か、そんなものである。物事は多面的、且つ患者意志に沿った医療選択、将来性を考慮しなければならないのかもしれないが、日常的に鎮痛剤や向精神薬が濃厚に関連した状態で今が良ければOKという思考の繰り返しの代償は計り知れないものになる。
 
何れ服薬も長期に及べば神経や脈管系、筋肉等の種々細胞や内臓器官の疲弊は避けられない。場合によっては不可逆化する。これらの事実は、幾ら作用を実感してようが実感してまいが、私の意見に反論しても反発しても感情剥き出しになっても闘病頑張ろうと声を上げても幾ら都合の良いムンテラしても、服薬している事実は変わらない。医療不信に陥った患者は病名を探し回る為に病院を巡り歩く。症状が消える事も望む一方、病名探しに躍起になる。都合の良い病名が見つかれば赤飯まで炊いたりする。その内に病名が幾つも並び始める。その病名に対しての薬物治療は結果的に鎮痛剤と向精神薬しかない。当たり前だが、そんなものを飲み続けても治らない。そうこうしている内に、自身の病名や症状を美化し始める。周囲に同情を買ってもらうように努める。同情の言葉が心地良く感じるようになる。同一症状を持つ患者同士でコミュニティを形成し、薬の情報交換をする。患者同士で薬の横流しをする。足りなければ個人輸入する。既にそこまで行くと治る病も治せない思考状態に陥る。何なら私が病名を付けよう。薬物中毒と言う立派な病気だ。薬で悪くなった心身を更に薬でマスクするだけの日々になる。そんなすったもんだの話しは今に始まった事ではないのだが、医療に従事する以外の方々は幾つか考えた事があるだろうか。医療の限界とは、その個人の限界であるという事を。
 
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日常的に発生し易い運動器疾患を例に挙げてみる。その場合、医療機関で聞く言葉が幾つかあると思う。「この注射は週に1回ね」「月に3回までね」「膝が痛いから膝に注射ね」「肩が痛いから肩に注射ね」等々である。これは保険上やガイドライン上の問題に端を発している。更に言えば、治療を弱める事は可能でも、治療を強化するのであれば保険外となる。ガイドラインに即した治療以外も結果が出なければ面子が潰される為に難しい。これらに正直な医者ならば正直に告げるかもしれないが、多方の患者は疑問に思う事なく帰宅する。ガイドライン上に基づいた治療以外の事を行えば上司や同僚に妬まれる。まして、それで結果を出しても出さなくても上司の面子が潰れる。さて、これは患者の為になっているだろうか。医療の限界とは、このような些細なケースでさえも起きている事を私達は再認識しなければならない。しかしながら、保険外での治療になると、極端に治療費が上がる。それは皆知っている。保険内治療を普段から行っている患者が、時折保険外の治療費を払うとなると、極めて高額に感じる為、面倒になる。そうなると治療の進捗は急激に遅れる。
 
幾つかの問題が生じる。1)患者が抱えている症状が保険内治療では作用が弱く、且つ既存の治療では治る気配がない。2)その場合、保険外治療で治癒速度が上がる可能性も期待出来るが、コスト高となり患者の支払いが続かず、結果脱落する。3)では、保険内治療のまま長期に渡る治療を行う事が双方の負担にならずに済むが、受傷起点が日常生活である場合、長期的治療プランは患者の行動制限が伴わないと、結果的に回復と受傷の天秤は良化に傾き難く、治りが悪い、治りが遅いとなる(たまに「医者に言っても『寝てろ』『会社休め』と言われるだけだから針に来た」という人もいるが、これは治癒に運ぶ為の正論なのである。動いて傷めた身体は動かない努力をすれば回復へと運ぶ。その事実を患者が拒否するが故に治癒遅延は招かれる。何故、『寝てろ』『会社休め』に対して反発心を持つか。それは受け入れ難い程の正論にしか過ぎないからだ。勿論、針治療で急激に回復は見込まれるが、原則として患者自身が積極的休養を取る事には異論はない)。このような強いジレンマが双方に生じ続ける。その内にどちらかが妥協する。折れる。諦める。このような悲惨な顛末が待ち受けている。治療はそうであってはならないものなのだが、治療をするにあたっても双方に種々のコストが発生するのは否めない。その為、患者の治癒を最優先するとなると、医療者側が犠牲となり、自腹を切り、そして覚悟を決めなければならないケースが時に発生する。
 
私が以前1回の針治療で発生するコストを医療機関で行ったと仮定し、照らし合わせた場合、幾ら位になるか計算してもらった事がある。勿論、症状や発症範囲で治療内容に差は出るものであるが、1番安いコストで見積もったとしても、1回毎で5万~30万程度の費用が発生していた。それ程迄に治療を強化して初めて達成出来る事実があり、治療期間を短縮させる事が出来る事実があり、患者の早期社会復帰が実現できる事になる。勿論、私の治療で全ての患者が治ったかと言えばそうではないし、双方が全力で挑んでもダメだったケースもある。勿論、これらの患者は既に他医療機関を回り尽くしてからであったのだが、ここでも止められなかったのは悔しいものである。しかしながら、恐ろしい程の自己犠牲と集中力と緊張を強いて初めて見えてくる知見というのもある。
 
得てして個人開業の理由の多くは、以下のようになると思う。コストと時間を自由に使いたい。上司の顔色を伺って患者に言えなかった事を言えるようになりたい。積極的治療姿勢を見せる患者群に対しては、積極的に治療を強化して早期回復を狙いたい。そのような野心が無ければ開業なんてするだけ無駄なのである。患者の多くは大病院に行きたがる。しかしながら多くの個人開業者は、そのような大病院に対して理由や疑念があり開業しているという事も知らなければならないのかもしれない。新しい知見や治療は大病院でも生まれるかもしれない。しかしながら個人が生む知見や治療は現場で構築され熟成された価値ある内容である事も知らなければならない。そして、そうであってほしいと願う。

限界を超えるなんて実は容易いのである。教科書を捨てれば限界は既にない。自分の頭で考え、一歩ずつ構築していけば、限界を超えるなんて容易い。只単に外野の人間が騒がしくなる程度であって、患者を如何に治すかだけを考えていれば、自分で考える事の出来ない人間の意見など、全く耳に入らなくなるのである。ピーチク言ってる内容なんぞ、既に教科書に書かれており、その内容で患者が治っているのであれば私も何も言っていないのだから。
 
背徳であり背水である事にも変わらない。無効治療であった事を告げられたら素直に頭を下げ、再度治療を練り直しする。無駄にプライドがある人間になんか出来ない行為である。そこを幾つも乗り越えていけば、当時は頸がおかしくなる程に見上げていた限界の壁も、既にずっと下にあるはずだ。
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  ~針治療から病態定義の見直しを~