藤原航太針灸院

痛み・痺れ・麻痺・自律神経症状の難治例の検証と臨床

精神疾患論


最早、一昔前のようにデリケートに取り扱う必要性があるかも疑問な程に罹患者が増大した非疼痛性疾患の代表格であり、この先も君臨するであろう疾患が精神疾患。何故、これ程迄に莫大な人数が罹患者として至ったのかはさて置き、基礎の基礎に戻り、敢えて精神「疾患」と記載したのには訳がある。精神の疾患とは、誰が何処で線引きをするものであろうかというのを、改めて考えても良いのかもしれない。恐らく、心療内科や精神科の外来に行き、チェックシートや問診等で総合的に勘案された結果、告げられているとは思う。超が付くほどの拡大解釈をすれば、がん、心筋梗塞脳卒中、糖尿病、胆石や椎間板ヘルニアに至るまでも仮に無症候だとしても診断が付くまではという話になるかもしれないが、「現在の精神症状」に対して「疾患」と言う単語が付くのは如何なものかというのを過去から述べてきた。
 
向精神薬を嫌う医師も多いのは事実であるし、向精神薬を大量に処方する医師も多いのも事実である。どのような対応をするのが名医と呼ぶのか私は分からないが、根本的な問題として向精神薬の反応について知っておいても損はないかもしれない事も過去から述べてきた。有名な話であれば、副作用に「基礎疾患の悪化」と記載されていたり(うつの人が飲むとうつが悪化する)、ジアゼパムの適応症が「不安 疲労 うつ状態 激しい感情の動揺 震え 幻覚 骨格筋の痙攣」であり、副作用が「不安 疲労 うつ状態 激しい興奮状態 震え 幻覚 筋肉の痙攣」という、作用なのか副作用なのか、それも引っ括めて反応と表現しても良いような事を一般の患者は何処まで既知しているかも大切な事かもしれない。これに気づき、短期服薬で断薬するか、長期服薬に伴い現症状が実疾患なのか副作用なのかの判定は、明確な副作用が出ていない限り、誰にも分からないというのも実情であり、多くの方が薬物由来である事に気づかず、増量しているのも現実である。
 
再度確認しなければならないが、何処からが「疾患」として変貌を遂げるかという問題がある。チェックシートが基準値を超えているからという安易な答えを持ってはいけない。最近の流行りとなった発達障害であれ、15年程前から「うつは心の風邪」と称したキャンペーンで莫大的に広まった精神疾患と診断された人間と向精神薬、そして、それに比例するかの如くの自殺、不審死、凶悪な事件や事故。その後、幸いにも向精神薬の危険性が浸透した為に服薬者の減少。そして、それに比例するかのようにピーク時は毎月1800人以上も精神病棟で亡くなられた方も減少傾向であり、病院外でも不遇な死を遂げる人口の減少も起きている。自殺者の7割が心療内科及び精神科の外来の門を叩いている事も忘れてはならない事だと思う。
 
このように、向精神薬の服薬者数とベクトルが同一方向に向く社会的な問題に関しては、その因子を薬物に由来するものとして見る人間も多く、それは私もである。昨今は危険ドラッグも多く関与しているかもしれない。これは自身でも調べてもらえば分かると思うが、面白いように比例している。反比例がない。敢えて書けば、初期に「うつ病」と診断された人間が「双極性障害」と診断名が変わる事で、うつ病としての罹患者の減少、双極性障害としての罹患者の増大がある程度であろうか。「うつ病」と診断されている以上、何かしかの処置はされていると思う。認知行動療法か薬物治療かが一般的であると思うが、頭をシンプルにして考えてみると、うつ症状を呈する患者に対して気分を高揚させる薬物を出しているのがケースとしては多いと思うが、薬物で何処までコントロール出来るかも問題であり、特に若年層や高齢層に関しては尚更である。

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要は、このように双極性障害としての発症因子は薬物によって作り出されているケースが多いのではないかという問題もある。それ程迄に、薬物で精神症状をコントロールするのは困難を極め、外内因性により人間は元々感情の変動というのは付いて回るものにも関わらず、それを薬物で感情を切り替える事の危険性は誰の目に見ても明らかである。
 
では、改めて考えてみるが、精神症状というのは誰しも抱えるものである。それを医学的には「落ち込んでいる人」も「元気な人」も「落ち着かない人」も、最近は「健康志向な人」も病気として扱われ、病名が存在する。診断基準が何処にあるか考えた事があるだろうか。調べようがないのである。それは、チェックシートで基準値を超えるか否か、若しくは裁量1つで幾らでも変化する主観的な判断である。最近は光トポや血液等々で調べる手段もあるようだが、そこに診断的な根拠があるのだろうか。もう少し簡単に書けば、学校でも会社でも家庭内でも、若しくは近所の井戸端会議でも、個々のカテゴリ枠内で平均値を超えているか超えていないかと同義であり、平均値に著しく満たない、若しくは平均値を著しく超えた人間が病人として扱われるだけの事である。
 
もう一度書くが、感情の変動は誰にでもある。その変動のラインは誰しも日々一定ではないし、大きな地震も起きれば、感情の変動も大きく揺れ動くのは当たり前なのだ。感情の変動因子は至るところにある事は誰でも知っている。誰しも、泣いたり笑ったりしてきた事があるだろう。その感情の変動が少し長期化すれば病人として扱われるだけなのである。これらの種々の事象に関する事を、知識の有無問わず素人的な感覚で考えてみても、個々の感情の変動に対して病名を充てがわれる行為が異常であるという疑問は浮かばないだろうか。
 
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では、針治療という視点に戻る。一般的な針治療というイメージは整形領域疾患に有効性を示すと思うし、正直なところ私も当初はそのように思っていた。もっと正直に言えば、アレコレと患者が何とかしてくれという度に何とかしなきゃで適応症状が結果的に広がっていっただけであり、そして、極めて悪質な性格を持つ向精神薬の問題にぶつかり何年も経っている。
 
現代医学的観点で針治療を行っている為、現行の痛みやシビレ、麻痺や脱力等々の整形領域疾患としての諸症状の対峙しか手段としてはないかと捉えていたのだが、さて、足元に立って考えてみると、仮にこれらの諸症状が整形領域や内科領域であれ、「患者の感情の変動は必須事項である」という事に直ぐに気づく。当たり前と言われればそれまでかもしれないが、針治療で感情のコントロールが出来る訳がないという狭い視点しか持ち得ていなかったが、これも又、当たり前の話なのだが、整形領域や内科領域の疾患が改善~治癒すれば感情の変動も平穏になるのも当たり前なのである。
 
一般認識として感情の変動を自律神経失調症と捉える人もいるが、ここは切り分けて考える。自律神経系の症状は、検査結果に現れない(もしかしたら検査機器の発展で分かるようになるかもしれないが)凡ゆる内科的様症状や疼痛性及び非疼痛性の諸症状も出す。下記に一例を挙げるが、検査的に異常の出ない頭痛、原因不明の視力低下、異常発汗、ホットフラッシュ、めまい、耳鳴り、難聴、立ちくらみ、胸の締めつけ、喘息のようなセキ、飲み込みづらい、喉の違和感、不整脈、息苦しさ、季節に関係ない手足の冷え、下痢、便秘、生理痛、生理不順、勃起障害、細かなふるえ、睡眠障害、慢性疲労等々が代表的である。
 
臨床的には治療内容、治効理論は同一及び極めて類似性を持つ為、「うつ症状」も含めても良いのかもしれないが、ここは一度切り分けて考える。若しくは、これらの諸症状も単一的なものではなく、基礎疾患や嗜好品、栄養摂取状態等々の偏りも絡んだオーバーラップ型の可能性も高いが、この観点も含めて考えればキリが無い為、ここは一先ず省略とする。
 
先ほども述べたが、当初の私は感情の変動など針治療で治るものではないと思っていた。しかし、異なる諸症状の改善~治癒により、結果的に感情の変動が平穏になる患者が殆どである。其れくらい、痛みやシビレ、脱力等々の問題は精神的にもダメージを与え続け、身体及び精神症状は暴走する。では、これらの整形領域的な疼痛性疾患を抱えない純粋な「うつ症状」他、最近の流行り病である「発達障害」や「双極性障害」に対しての針治療を通したアプローチも可能である。
 
前述した通り、理屈的には世間一般の「自律神経失調症」のカテゴリ内である。 治療手段等の各論的な論述はここでは行わないが、臨床上、有効率は相当高い。何故なら、幸いにも比較的簡易的に処置の出来る部位である為、根治的な治療も可能となる。勿論、これらは環境因子に大きく依存される為、個々の患者も感情の変動を生じた原因というのは把握しているかもしれない為に、出来る限りの患者の努力や協力も必要になるだろう。例えば、腰が悪い原因がイスの座りっぱなしであるのなら、なるだけイスに座らないよう心掛けてもらうのと同じように、うつ傾向を示してしまう因子があるのなら、出来る限り離れた位置に移動する事などの対処である。之くらいの事が出来る内は未だ軽症例でもあるのかもしれないが。重症化すればイスに座る事すら出来ないし、精神変容を伴う悪化因子を離してもどうにもならない場合もあるだろう。

先ほども書いた通り、「うつ病」、「発達障害」、「双極性障害」他、もろもろの精神疾患という「疾患」は存在しないと思っている。存在しないと思っている「疾患」に対して「治療します」と言うのも矛盾しているように見えるが、事実上これらの様な症状を抱えて困っている人は多く存在する。
 
人の性格や行動内容にまで病名を付けられてもどうしようもないが、その性格や行動内容を患者自身が日常生活に支障を来す「疾患」であり「症状」だと捉えるのなら、それは治療対象になる。これ程迄に年を増すごとに様々な精神疾患名が新たに出来上がり浸透している以上、「椎間板ヘルニア=痛みシビレ」のような誤った解釈がされてもおかしくないし、これらの疾患名の「存在を守る人間」も沢山いるという事も忘れてはならない。故に、話しは常に平行線を辿る場合もある。
 
それでも尚、一人一人の患者が僅かでも今の告げられた診断名に対して疑問を持つ事が出来れば、それだけでも回復への道は開ける。しかし、そのような意識を持てる程度であれば未だまだ軽症例かもしれない。勿論、自己が抱える疾患に対しての評価や価値観、患者家族の患者が抱える疾患に対しての評価や価値観も重要である。ほぼ確定と言っても良いかもしれないが、疾患に対しての価値観、理解の障壁が最も高いのは患者家族である。これらの障壁を患者自身がクリア出来ない、クリアする気力も力もない、どうしようもない。まして理解もしてもらえないという孤独に陥っているケースが残念ながら圧倒的に多い。
 
往診に行く位なのだから比較的重度例も多く、あまり触れたくはないが、向精神薬や鎮痛剤の問題も必ず付いて回る。そのような、「症状に対しての価値観や理解」、「向精神薬や鎮痛剤に対しての価値観や理解」、そして「周囲の目に対しての価値観や理解」が著しくギャップがある場合、正直どうしようもない場合もある。そりゃ人間の生き方や意志は尊重しなければならない。「向精神薬や鎮痛剤で治そう」と言う人もいるだろうし、その個人の意志に対して兎や角言う権利など誰しも持っていない。
 
さて、何をこんなに回りくどく書いてきたかと言うと、私の文章能力の問題でもあるのだが、端的に言うと「困りたくないから」である。誰が?。それは、「患者家族が困りたくないから」でしかない。それは住居を共にするほど、もしくは患者と患者家族との距離が近ければ近いほど高まる。そして、この「患者家族」という表現は、血縁者だけを指したものではない。患者は常に理解されぬ症状で孤独に陥っている事を忘れてはならない。どんな症状でも構わない。手術しても何をしても治れず、「年のせい」「気のせい」「心因性」「精神異常者」と簡単にレッテルを貼られた患者の悔しさは如何なものかと考えた事があるだろうか。そして向精神薬を処方された患者の悔しさは如何なものか。その結果、向精神薬由来の問題で悩み続け、精も根も尽き果てた患者がどれだけいるか。
 
様々な事情が絡むのは致し方ない面もある。全否定出来ないケースとてある。どうしようもない場合もあるかもしれない。それでも尚、「仕方ない」と楽観的に表現しても問題がないのは、患者の身体的リスクを除外し終えてからでなければ、常に患者はリスクに暴露され続けているという現実だけは知らなければならない。
参考関連(クリックでリンク先にジャンプします)
 

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