藤原航太針灸院

痛み・痺れ・麻痺・自律神経症状の難治例の検証と臨床

「合う」「合わない」とは疾患概念の差異によるもの


あけましておめでとうございます。最悪な初夢です。
~夢はじまり~
 
トイレに行きたいと目を覚ましたら極端に身体が重く、必死な思いでトイレに行く僕。
トイレしにくいな~と思いながらも済ませ布団に入ったらヤケに具合悪い。そこに近寄る女性。
 
「具合悪いん?薬飲む?○○あるよ」 注)服薬している方の名誉の為に薬名は伏せます
「いらないよ。何も出さないでね」
 
~夢おわり~

                    
 
                         夢にも思わなかった初夢

端から具合が悪くなり薬を押し付けられる夢を見てあまり良い気分での年明けではありませんが、基本的にお会いする方々は具合が悪い訳なのですから仕方ないかもしれません。さて、サイクバスター的な発信をしている方々は全国に沢山おられますが、その方々の多くは自身が過去に向精神薬被害者であり、必死な思いで減~断薬した事に(現在進行中も含め)端を発しているようです。実体験が伴う故、説得力があり、且つ情報収集量が膨大な為、随分と勉強させて頂いてます。では私、私がこれ程迄に批判的である理由に関しても「前に散々被害に遭ったのね?」と聞かれる時があるのですが、実は私自身、被害に遭った訳ではありません。それどころか飲んだ事すらないかも。記憶を辿れば13年前、事故で入院した際に斜向かいのジジイ…失礼、御歳を召してらっしゃる方が大層賑やかで昼寝どころでなかった時、看護師さんにコッソリと金ハルを渡されたくらい(今考えるとそれも色々マズイような…)でしょうか。あ、でも術前術後に点滴で入れられたりされていたのかな、多分。
 
余談ながら大学の講義では随分と聞かされていました。ちょうど学生時代はGSKによる「うつは心の風邪」キャンペーンが始まったばかりで、「薬を飲むのは当たり前。薬で治る。薬で治す。薬は素晴らしい」そんな話を聞かされればそんなものかと思いますし、何かあった時の選択肢も薬物か手術かと、そのような時期も過ごしました。因みに私は事故る二十歳過ぎ迄、針治療の存在すら知りませんでした。何とかならんかと必死に何かを探した結果が針治療だったというだけであり、知らないとはそんなものなのです。多分、探そうと思わなければ今もそのままだったでしょう。今にして思えば、教科書~試験的には正解でも、臨床現場では不正解という事例は腐る程あります。大半がそうではないでしょうか。そして、教科書的に答えを出してくれない患者群を心療内科や精神科に回す事、教科書的に結果を出してくれない患者群に対して向精神薬を処方する事が果たして正解なのでしょうか。残念ながら、世間一般では未だ正解のようです。しかしながら、人が作った医学は人が作り変える事も出来るのです。それは単にマジョリティかマイノリティかの違いだけで、そしてマジョリティに持ち上げた理由というのも大人の都合で答えを決められる世界である事を、臨床現場に出れば嫌というほど見聞きします。その為、時として共同作業をする時もありますが、基本的に1人で動いているのです。組織になると必ずジレンマが生じます。ポジションやスタンス、スタイル、更に時間やコスト制限が掛かれば患者にとって不利益を齎す場面に遭遇する事を何度も経験する事になります。人生のアクシデントと対峙するには、大きな組織で大きく動くスタイルでは向いてません。とは言え、昨年からの課題である1対1という針治療の拡散性の低さは何とかならんかとも思っていますが…。
 
先日、とある祈祷師が1型糖尿病患者に対してインスリン接種を禁じ死亡しました。死因迄は調べていませんが恐らくケトアシドーシスによるものでしょうか。片方では、比較的有名な医師も1型糖尿病患者に対して糖質制限インスリン接種を禁じ死亡させた事例もありますが、こちらは然程大きなニュースにはなりませんでした。まして、テレビや新聞等のメディアに載ったかも分からない程、救急車で搬送された先の病院でコッソリと死亡しました。このように、祈祷師なら悪で、医師なら良とする背景というものは、保持免許、法的な問題、社会的背景の種別、世論等によるものです。医師なら許される事も、祈祷師の場合は大きく取り上げられる。別に私は祈祷師の肩を持つ訳でもありませんし、祈祷師という方が何をするかも知りませんが、「そりゃ死ぬよ」という遣り方で死んだとしたら、それは不思議な話でもなくなります。事ある毎に取り上げられる医療ニュース。がん患者が抗がん剤を使用せず代替療法に走って死亡したという話題も、著名な方であれば大きくメディアで報じられます。そうすると、抗がん剤を用いれば○ヶ月~○年の延命が可能だっという評論家や医者が出てきて、代替療法を医学的根拠がないと叩きます。その反面、抗がん剤を用いて死亡した場合はどうでしょうか。精一杯治療しましたがダメでしたで終わりです。その逆に、代替療法で治ったとしたら、それは偶然だと言われます。では、仮にそのような医学的根拠を牛耳る方々自身が患った場合の治療手段は自身が発信している医学的根拠とやらに基づいた治療手段でしょうか…。それ以前に、抗がん剤使用で○ヶ月~○年の延命が可能かどうかも使用しなければ分からない事ですし、抗がん剤を使用せずに○ヶ月~○年の生存が可能であった事も事実として認識する必要性もあります。更に同一患者の場合、使用及び不使用で比較する事も不可能なのです。
 
故に、医療は患者の自発的な選択次第でどうにでもなる事も意味し、選択次第で恩恵を受ける事が出来たとしても出来なかったとしても、医学的根拠という言葉を牛耳る方々が存在する以上、現在のマジョリティが医学的根拠になります。マジョリティに沿った選択手段を用いれば、健康になろうが不健康で終わろうが世間は許してくれるものです。なので、自身の身体も他人の目を気にして世間体に沿わせた生き方をさせておけば、死後も家族は楽なのです。そうすれば、薬で死んだとしても病気で死んだ事で済むからです。それが嫌なら自身で自発的に医療選択をして健康を奪取するしかありません。
 
では向精神薬、まして多剤大量処方は医学的根拠が有り、科学的根拠が有るのかという問題も考えなければなりません。そもそも、精神医学の成り立ちの歴史背景を鑑みれば、根拠という偉そうな基礎的根本的支配領域とは随分掛け離れたところで派生したものである事も知らなければなりません。じゃあどうすれば?という患者からの声もあるかもしれませんが、それは患者が学び、気づき、自身の身体に耳を傾けるしか方法はありません。誰も当事者の痛みを知る事も出来ないのです。更に言えば、どんな症状であれ、症状改善の手段を医療に求めなくても良いのです。例えば先ほどの1型糖尿病を取り上げても、先天的か後天的かで意見が大別しています。それくらい、確立された医療というのは存在しないのです。確立していない故、様々な手段が存在すると言えるのかもしれません。もっと身近な症状であれば肩凝り腰痛が最もな例でしょう。
 
私が向精神薬の害について訴えている理由の1つに、精神科から患者が回されてくるからです。勿論、紹介でなくとも自発的に来る人もいます。針治療は大概にして整形領域疾患や自律神経症状領域、次点として中枢神経系機能の疾患に対して著しい効果を示します。視点を変えれば、精神科や心療内科を受診するキッカケというのも、自律神経症状領域のカテゴリ内に含まれる、うつ症状や睡眠障害を初発とした諸症状で受診し、向精神薬が処方されるケースが多いと思います。この段階で、針治療の受療患者は2群に分類されます。向精神薬非服薬患者群(以下 A群)と、向精神薬服薬患者群(以下 B群)です。2群に分類された患者に対し針治療を行う事で、同一症状を持つA群とB群との症状改善推移や予後が分かります。少し乱暴な書き方をすれば、皆さんの想像通り、Bの症状改善推移は著しく悪いものです。理由は後述しますが、精神科や心療内科に行く程、症状が重いからという理由ではありません。ご存知の通り、15年程前から随分と敷居の低くなった精神科や心療内科、未だに精神面での異常症状に関してはデリケートな取り扱われ方がしていますが、向精神薬を飲んでる患者群の数を調べれば非常にカジュアルな状況になっています。これらは言ってしまえば疾患を喧伝した企業があり、その企業の喧伝に乗った国や自治体や民間企業が更に拡散し、隅々に迄入り込んだ医療化の弊害と言えば其れまでなのですが、話せば長くなるのでこの点は省略。その反面、非服薬群であるA群の症状改善推移は著しく良いと知る事も出来ます。あまり私が症例を書かない(書きたくない)のは、A群とB群では極端に治療回数や治療期間が異なるというデータがある為に、重要度の高いB群の治療意志を削いでしまう結果にも繋がりかねない、且つ、B群は針を受ければそれで終わりという単純なものでもなく、減~断薬という自己努力も必要な為、個体差も大きく生まれてきます。
 
そこで、B群の患者に対して減~断薬をしてもらう事で症状が消滅したとします。結果、この段階でB群が発している諸症状は薬物由来であると断定出来るという図式が成立します。勿論、B群とて服薬しながら治療を継続する事により改善される症状は改善します。全ての症状が薬物由来ではないでしょうし、皆、日常的な負担(損傷)で発した症状に上乗せされている薬物由来症状である為、日常的な負担(損傷)分は針治療で差っ引く事が出来ます。となると、残った分が薬物由来であると推測も可能です。但し、このような推測を可とする為には、A群に対して限りなく100%の結果を出せなければ、B群に対しても推定不可能であるという前提があります。
 
そして又、ハードルがあります。冒頭でも書いた通り、A群とB群の2群に分類される前段階として、「精神科からの紹介来院」(以下 C群)か、「自発的な受療意志での来院」(以下 D群)かです。ここで不思議に思われる方もいるかもしれませんが、何故、これ程までに精神科や心療内科を批判しているにも関わらず紹介があるかと言えば、外来で手に負えなくなったが入院させる程ではないという、ギリギリなラインの患者が回されます。医者も人間、面倒臭い患者より都合の良いお利口さんな患者が良いに決まっています。若しくは患者及び患者家族が入院拒否した場合、若しくは、整形領域系疾患で鎮痛剤や力価の低い向精神薬等でも抵抗性を示した後に、精神科へ回され向精神薬を処方されるも抵抗性を示す場合、等々とケースは様々です。何故そんな厄介な患者を引き受けるかも書くと、厄介な患者ほど有している情報量が半端ではありません。更に症状が複雑且つ、やはり驚異的な治療抵抗性も示します。それは何故か何故かと考え続けます。それは患者の為でもありますし、自分の為にもなります。更に、他患者へのフィードバックにも繋がり価値は膨れ上がるのです。嫌な事にはどんどん突っ込んでいったほうが良いのです。
 
話は戻しますが、D群に至っては既に「ヤバイ薬飲んでんじゃね?」と自身の危機意識が強い為に情報収集としての来院動機もあるかもしれません。どうでも良い話ですが、D群も自己判断で一気断薬など、突っ走ってしまうタイプも含まれている例もありますが、患者自身に知識や理解が有るか無いかの差は大きく、成功例としてはD群が高いと言えます。C群に関しては患者家族が先行しての依頼の為、患者自身に治癒意識が希薄且つ知識と理解が無い、仮にその時に知識や理解がなくても得ようとする姿勢もない為に脱落例も多いものです。時に過量服薬で救急車で運ばれるのもC群に多いかもしれません。向精神薬に限らずですが、日常的に派生した諸症状は「薬で治る」「薬で治す」と勘違いしているタイプに多いのかもしれません。薬で悪くなった身体を薬で何とかしようと思っても何ともなりません。鎮静させるのが関の山。大体2~3度ズッコケて、且つ匙を投げられてから私の言っている事に耳を傾けてくれるものです。psychotropic drug is blindなのです。
     
私自身、向精神薬に対して危険視しているものの、非常にフラットな視点を持っています。語弊はあるかもしれませんが、其処まで積極的ではない事は以前も書きました。1つの理由に、向精神薬に限らずですが食事や嗜好品、仕事、趣味等々全て含め、身近なものであればあるほど、患者は変えられない、変え難いという点です。患者にとっての身近な存在は、何故身近な存在として存在し続けるのかを先ずは考慮する必要があります。それは、向精神薬や鎮痛剤による依存性の問題だけではなく、仕事も食事もスポーツもお菓子もタバコも酒も柔らかいソファーも全て依存性がある為、身近に存在し続けているのです。且つ、今でこそ精神医療や向精神薬の危険性は暴露され認知度が上がりつつあるも、まだまだこれらの認知度は低いのも患者側の理解が得られ難い要因になっていると同時に、消火部隊の能力が尋常ではないというのも挙げられるかもしれません。それ以外の依存を生む要因はどう思われているでしょうか。仕事のし過ぎで…、美味しい物を食べ過ぎて…、スポーツし過ぎて…、お菓子を食べ過ぎて…、タバコを吸い過ぎて…、椅子に座りすぎて…、これらの悪化要因は認知度が高い故、これらをきっかけに身体を壊した際も自責の念は生まれやすいものですが、向精神薬を飲んで身体を壊したという認識は、未だに認知度が低い故に反発され易いだけの話なのです。では、これらを全て変える事は果たして可能でしょうか。恐らく誰も出来ないと思います。それならば、優先順位を付けて有害性の高い症状発症のファクターから止めるのが賢くあり、高度な有害性を保持し、服薬から減薬、断薬、断薬後に至るまで、中枢神経系機能に悪質な反応を及ぼし続ける向精神薬オピオイド系鎮痛剤を先行させるのが良いのです。
 
人間は生きているだけで疲労(損傷)する生き物です。疲労(損傷)し続ける生き物であり、老化という最大の疾患と対峙し続けます。若年層であれば突発的に訪れる怪我や病気という存在かもしれませんし、日々の蓄積で存在を初めて自覚するかもしれません。その存在は極めて忌々しい存在でもあり、自己の心身から発せられる異常事態は逃避する事が不可能、且つ、逃避行動は強大化し、周囲を巻き込む事態に発展していく場合もあります。その時に症状から学ぶか、症状から逃げるか、どちらの選択を取るかでその後は変わります。症状から学ぶ事が出来れば一度でも治癒に至った場合、再発率は極端に低下します。しかしながら症状から逃げた場合、より一層の難治化が訪れると共に、仮に薬物で対峙しようとしたとしても、日常的に高度に発生する様々な症状に対しては蓋をする事しか出来ないのが現状です。蓋をされた症状は治癒した訳ではなく、自覚し難くなった身体環境になっただけであるという危機的状態である事には変わりません。
 
何をしても治らないという激烈な症状が引き起こされる迄は、いつかは治るだろうという怠惰的思考と、アレもコレもと足せば治るという誤った思考、家族や周囲の制止によるもの、もう1つの理由として、どのような治療手段を選択しようが患者の自由意志です。冷たい言い方に聞こえるかもしれませんが、服薬するか否かも患者意志による患者責任です。後遺障害を残すほどの有害事象が発生した場合、金銭補償等々の保護はあるかもしれませんが。しかしながらこれらの事象は、美味しい物を食べ過ぎて糖尿病になったとか、酒を飲み過ぎて肝硬変になったとかと同じであり、医者から薬を買って具合が悪くなったとしても、それはそのような薬なのです。食べ物にも作用があれば副作用もあります。酒も薬も然りです。単に私が書いている事は、治療を行う上で向精神薬による種々の反応(作用や副作用全て引っ括めて)が症状改善を望む患者の中長期的将来を鑑みれば邪魔であり有害でしかないのです。
 
同業とて、一般的には整形領域由来の患者が多数を占めると思います。そこで皆気づかんのかなといつも思うのです。「純粋な整形領域疾患」と「向精神薬による反跳性筋硬直で派生する整形領域類似性症状」の差異です。先ず、ここを把握しなければ不利益を被り続けるのは患者です。何でこれが医科では見極めが難しいかと言えば、針治療「だけ」で積極的に患者と対峙しなければ分からない部分であり、針治療のような作用を生む治療手段は針治療以外に存在しないからなのです。勿論、針治療者によって理論理屈は異なり、刺入部位の選定や深度、そして見立てから何から異なる為に「針治療なら何でも良い」という理由は生まれませんが、痛いからハイ薬、眠れないからハイ薬で症状を潰すだけの相手をしている場合、恐らく把握し難い部分なのかもしれません。しかし、これだけ向精神薬が他科領域に侵食している状態ですと難しいのかもしれないですね。何故難しいかと言えば、このような話をすると、良かれと思って服薬している患者と、良かれと思って処方している医者に嫌われるからです(苦笑)でも嫌われようがそんな事はどうだって良いのです。良くなりたい人間から治していけば。

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             処方期限が定められていない故に生じているのかベンゾ依存大国の日本

次回はもっと針屋っぽい話をします。「大腰筋刺針の再考察及び筋刺入に伴う脈管系機能回復のプロセス」とか。骨間なぞ何のその、極めて侵襲性の高い針治療は理屈通りの治療が可能且つ、深達性を求める際も力価の低減が生まれません。身体内部に入り込む針という存在は、身体にどのような生理的現象を引き起こし、その現象を元にどのような反応が惹起されるか。そして、その反応は当該患者にとってどのような恩恵を齎すか。しかしながら針治療の真実は其れだけではありません。刺入は筋実質ではあるものの、筋実質への刺入から派生する筋弛緩が第一目的でもありません。弛緩は結果であり、継続的によって起こる栄養供給の安定性が得られてこそ、経時変化に伴う症状改善自覚は得られます。そこから知る事が出来る現代医学が標榜する各種疾患概念の誤り、病態把握の誤りとは。又は「福田パン あんバターに込められた社長の想い」、「ユーザー車検が面白かった」、「超人ネイガーと新春カルタ大会をする」のどれかです。
 
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参考関連(クリックでリンク先にジャンプします)
 

※昨今、多くの被害者の声により、向精神薬及び精神医療の実態が大きなメディアを通しても報じられ、減薬~断薬が一種の流行になっていると情報が入っています。危険性を知ったからと、減薬~断薬は興味本位で取り組めるような生易しいものではありません。急激な減薬~断薬は命に危険を及ぼす場合もあります。自己判断では行わないように※
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  ~針治療から病態定義の見直しを~