藤原航太針灸院

痛み・痺れ・麻痺・自律神経症状の難治例の検証と臨床

「治るとは」を今一度 3


引き続きアンケートと協力患者を募っています。宜しくお願いします。

極端な言い方をすれば、「治るとは」というのは患者にとって屈辱的な事です。
突発的な事故や怪我、薬禍、ワクチン禍等々の例外的事象もあるかもしれませんが、
過去から現在に至る患者の行動が回復とは掛け離れたところで動き続けた結果が「今」であり、
過去の精算を伴わなずに加算行為を行い続ける事で招かれる将来は、治癒遅延であり、治癒阻害であり、
症状の憎悪であり、随伴的に溢れ出てくるような諸症状であり、世間一般で言われる病気に至るのです。
 
患者が想像する針治療というイメージ上の理由からなのか、来られる多くの患者層は整形外科領域になり、
次いで自律神経症状です。これらの諸症状を抱えた患者群に薬物問題が乗っかてくるという話しであり、
現場に立つ身として臨床を重ねてきた中で一番厄介な問題になってきたと考えられるのが、
「患者が取り入れている回復過程に於ける自己矛盾行為」であるという事です。
 
総合的な力不足故、途中で脱落した患者もいる事から猛省すべき点はありますし、
見栄を張って言える事でもありませんが、多くの難治例、重症例も回復させてきたからこそ言える事もあります。
 
100歳近い寝たきり患者が、部屋の掃除と模様替えまでし始める程に回復したり、
1人じゃ何も出来ずに施設のパンフを片手にしていた患者が改めて家族の輪に戻れたり、
四肢の部位問わず、及び全身に痛みが波及した患者が電動車椅子からスポーツが出来るまで回復したり、
3回も4回も同じような部位を手術しても良くならないと嘆いている患者に対して回復に運ばせたり、
○○と診断されて落ち込んでいた患者に対して、症状と診断との矛盾を突き、誤診である事を患者に説明し、
納得してもらい回復まで運ばせたり等など、多くの患者と対峙する中で見えてきた事もあります。
それは、針治療が効くとか、現代医療を貶めるという話しではなく、様々な要素が絡まった結果、
現状の状態から単に抜け出せなかった患者の背景を紐解く事で見えてくる部分も多く、
それは泥水を啜るように患者と向き合ってこそ分かる部分なのです。
 
もう一点。何でこのような患者に対して誰も積極的に治療を行わなかったのでしょうか。
寝たきりが治る訳ないからと思い込んでるからですか?
施設に入る事で痛みが改善するという幻想を持っているからですか?
車椅子の患者を歩かせるまで回復させるのが面倒臭かったからですか?
何回手術しても治らないと塞ぎ込んでいる患者のモチベーションを上げる行為は金にならないからですか?
同じ治療を施すなら、お利口さんな軽症患者ばかりを相手していたほうが楽だから目を塞いでいたのですか?
 
本当に症状の重い患者は治療院には来れません。歩く事も車に乗る事も出来ません。
点滴をぶら下げて治療院に来るなんて事も出来ないでしょう。
その為、私が患者の家庭に足を運ぶ事になります。多くは高齢層が占めてくるかもしれませんが、
患者家庭にお邪魔するという事は、患者家族の患者に対しての負の側面も多く見る事になります。
患者が回復する事を拒む家族もいます。残酷な光景を見てしまいます。
患者は拒めど施設に入る事を良しとする家族もいます。
患者家族に苛められ、自ら施設への入居を希望する患者もいる程です。
 
気晴らしとは訳が違う効果を出すのが針治療であり、想像を超えた結果を残し続けるのが針治療なのです。
最大限、針の作用を活かす治療手段を考察し続けた故の結果は、患者の想像を超える事が出来るのです。
しかしながら、患者のQOLの向上は、患者家族にとって全てが「良」へと繋がる事ではないという側面もあります。
患者が歩けるようになった。患者が自分で用事を足せるようになった。
患者が元気になって、患者家族に手出し口出しするようになった。
患者の幸せとは裏腹に、患者家族の要望であった気晴らし程度と見込んだ治療は裏切られる事になります。
 
痛みは誰にも分かりません。話しは聞けても痛みは私に伝わりません。
それは、患者家族であれど同様で、痛みなんて患者自身にしか分からないのです。
その為、痛みは孤独に患者に襲い掛かります。そして孤独を形成します。
それが仮に同居であろうと別居であろうと、今後施設に入居しようと、患者の痛みが変わる事はありません。
患者は、その痛みを抱えながら生涯を閉じる事になります。それだけは絶対に避けてもらいたいのです。
家族である人間を、痛みに悩まされながら時間を過ごさせる事だけは絶対に避けてもらいたいのです。
 
「歳だからさ」「湿布貼っとけ」「薬飲ませとけ」「病院連れてけ」「点滴させとけ」etc…。
 
多くの言葉を聞いてきましたが、それは、患者に対しての侮辱である事を家族は知らなければなりません。
そして、これらの言葉は、治す為に現場に立ち続ける人間に対しての侮辱でもあります。
患者は、歳である事と痛みに対しての相関に疑問を持ち、歳であれど痛みの無い身体を望み、
湿布を貼っても、薬を飲んでも症状の変化が無い現状に苛立ち、異なる治療手段を模索している心情を、
そして、治りたいと願う心情を家族は汲むべきであり、応援するべきではないでしょうか。
 
故に、患者家族の応援がある場合、確実に安定的に症状は解放に向かいます。
故に、患者家族の応援がない場合、患者が治りきる事はありません。
故に、孤立無援と嘆く一人暮らしの患者が早期で回復するのです。

            

「重症」「軽症」と言葉で表現はしますが、痛みは患者個々人でしか分かりません。
私は患者の痛みを分からない為に、患者からは多くの情報を頂くよう努力しています。
そして、患者個々で「重症」か「軽症」かの価値は判断する事であり、相対的なものではないと思っています。
 
職業上、手指で細かな作業を行う人は、僅かな手指の動きが覚束なくなれば、患者にとって重症です。
しかし、細かな手指の動きを必要としない職の場合、それは軽症と捉える事にもなるでしょう。
足腰をメインで使う職に従事している場合であれば、首肩の症状は患者にとっては軽症にもなりえます。
しかし、首肩をメインで使う職に従事している場合、それは重症にもなりえます。
足が一本なくなっていたとしても、腕が一本なくなっていたとしても、
患者自身が社会的立場上、そして職業上、不自由さを感じなければ、それは症状と捉える事もないでしょう。
端的に書けば、生活をする上で困る症状が惹起され続けている為に患者は困っています。
 
力価や多剤の問題は置いといて、患者側の思考が治る行為に向いていない以上、残念ながら治りません。
私は前項にて、症状改善の理由に「患部血流量の増加・維持・確保を求め、経時変化に於ける組織回復を求む」と書きました。これは、どんな症状であれ、回復させる為に一番大切な事であり、異論は無い部分です。
この極々単純な根本的問題の解除に針治療は寄与しているだけなのです。
 
例えば極々軽症時であれば、寝ていても治るのは多くの方々は知っていると思います。
寝る暇もなく動き続けなければならないから、症状が長引いてしまうのも多くの方々は知っていると思います。
では、何故、治れなくなったのかを私達は先ず考えなければなりません。
何で治れなくなったのかを軸に考察する為、生活様式に失礼ながも足を突っ込んでいく事になります。
それが、先ほども述べた「患者が取り入れている回復過程に於ける自己矛盾行為」になります。
 
先ほど触れた患者と患者家族との関係の在り方というのも、治癒遅延、治癒阻害の一因になります。
その他、患者自身が取り込む行為による内容による治癒遅延、治癒阻害が、
組織回復とは逆行する種々の行為である事を知るべきです。
 
改めて書きますが、人間の身体は全て血流で維持されています。
筋肉も神経も血管も骨も、全ての栄養源は血液であり、血流により維持され続けます。
それらの阻害行為が優位に立つ行為を取り込み続けた場合、治れなくなります。
それが、絞扼であり、圧迫であり、収縮作用を主とするものです。
 
症状発症箇所に対して栄養供給が送れなくなるような箇所を常に圧迫し続けている。
これらも治癒遅延を招きます。簡単に例を挙げますと、日常的に血管収縮作用の成分が入っている
湿布や薬剤を取り込む。コルセットやサポーターをキツく巻く。この事で、痛みを感じにくくなると同時に、
コルセットやサポーターによる強制的な筋短縮作用にて、運動時の足の運びや腕の運びは
楽に感じる事が出来るかもしれません。しかしながら、それは治しているのでしょうか。
 
楽になっているだけである事は一般の方々も承知の上であると思います。
そして、長期使用に伴い手放せなくなる身体になる事は多くの方々も経験されていると思います。
もしも、これらの行為で治るのであれば、直に薬もコルセットも手放す事になるでしょう。
しかし、多くの方々が力価の強い薬を求め、より強い絞扼作用を身体に求めるようになります。
その理由も、常に痛みを悪と捉え続け、打ち消そうとする行為が痛みを強大化させた結果です。
 
日常的に鎮痛を求めてしまった身体は、筋疲労も早期で自覚し、筋短縮も進み、
その結果、関節破壊や椎間板ヘルニア、脊柱の狭窄、各種OAへ等の器質的異常へと繋がり、
各種数値の異常、自律神経症状を惹起し、人によっては痛みが広範に及ぶ事になるでしょう。
そして、様々な病名が患者に対して貼られる事になります。
 
治らなくなった身体の一因として、患者が取り込んだ故の結果も多くあります。
それが、他者に言われたから取り入れている、若しくは自身の意志で取り入れていたとしても、
結果的に、全ては自身の身に降り掛かっている事であり、自身が選択した手段である以上、
陳旧化した症状に関しては、自身の内省がない以上、回復する事はありません。

治るという行為は、治すという行為は、
誰かを陥れたり、誰かを叩いたり、足を引っ張ったり、出し抜こうとする事は出来ません。
自分自身に対して、過去から現在に至るまで行い続けた誤りを認め、
自身の行いを侮辱し続ける事で初めて回復が見えてくる行為であり、
社会的地位が高ければ高いほど、その屈辱は受け入れ難いものです。
しかし、治る為には仕方ないと腹を括るしかありません。
その屈辱を受け入れ続けた末、初めて回復という事実を掴む事ができ、
再発防止のみならず、今後の取捨選択も容易になる事を、回復した患者方はよく知っています。

私だけが経験している事ではないでしょうけど、既に患者は医療に対して不信に陥っています。
良いと言われた湿布を何十枚貼っても良くならなければ、薬を飲みまくっても良くならず、
注射しても変わらず、手術しても変わらずという、手の施しようがない治療手段を蔑んでいます。
まして、大病院でも良くならないと蔑んでいる状態に針治療という原始的な手段が登場しても、
何も知らない患者にとっては治る訳がないという状態で挑んでくるケースも多く、
この時点でアドヒアランスは既に最悪の状態とも言えます。
 
切り返しを望む為には、結果を出すと同時に、「治るとは」という意味を、患者に勉強してもらい、
治療ベッドに寝ているだけでは治らないという事を知ってもらわなければなりません。
 
昨今、各種オピオイド向精神薬により、患者の痛みは強大化し、ハードルは上がっています。
患者が良かれと思って減薬した途端、強烈な禁断症状と痛みに苛まれているような状況です。
それが再服薬に繋がり、依存へと落ちていくのです。
 
鎮痛、鎮静、快楽、これらを日常的に取り込んだ反動は、離脱する際、地獄のようなツケが回ってきます。
古くからある解熱鎮痛剤の使用で「効かないね」と愚痴をこぼしている程度であれば、
このような事にはならなかったのにと、悔やまれる日々です。
 
患者が症状を出さない身体まで持って行く為には、相当の根気と患者の思考の切り替えが必要になります。
重症化すればする程、人間は不思議と自分の症状を、自分の病気を美化し始めます。
絶対に病気に寄り掛かる生活は送らないように。そんな考え方で治った人は誰一人いないのです。
病は気からですが、病は気では治りません。病は患者が行動を起こさなければ薬漬けになるだけなのです。
鎮痛剤や向精神薬を飲み続ける行為は闘病ではありません。自己の否定と逃避にしかなりません。
 
長々と書きましたが、実は何て事ないのです。
痛みを抱える人間はアチコチに沢山いるでしょう。
しかし、「痛みを抱えている患者」と「治りたい患者」には大きな差があります。
「治りたい患者」は自分の症状から逃げる事はありません。
自身の痛みと向き合い続け、試行錯誤し、痛みからの脱却を勘案しています。
それが幾ら今が薬漬けであろうとも、切った張ったを繰り返されズタボロになった身体であろうとも、
家族に苛められて居場所がない状態であろうとも、「治りたい患者」は回復していきます。
患者側が治る為の覚悟と気持ちを強固にし、行動が伴えば案外すんなりと乗り切れるのです。

   ※自己判断での減薬・断薬は命の危険さえ伴います。絶対に行わないようにして下さい※
 
参考関連 
 
整形領域の陳旧性患者群、及び、再燃確率の向上が懸念される患者群に対して
 
「心と体の両方からアプローチ」された水面下で巻き起こっている事 1
 
「心と体の両方からアプローチ」された水面下で巻き起こっている事 2
 
「心と体の両方からアプローチ」された水面下で巻き起こっている事 3
 
「心と体の両方からアプローチ」された水面下で巻き起こっている事 4
 
「心と体の両方からアプローチ」された水面下で巻き起こっている事 5

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  ~針治療から病態定義の見直しを~