藤原航太針灸院

痛み・痺れ・麻痺・自律神経症状の難治例の検証と臨床

不登校を解決する為の手段を考える2


その解決には至っていない部分もあり記録がてら少し書いていきたいと思います。尚、最後までご覧になられても明確な解決策は得られませんが、類似症例を抱えている方が僅かでもヒントとなる部分を見つけられれば異なる視野での発展も出来たりするかもしれません。
前項でも書いた通り、1)イジメ 2)不安や焦燥、うつ症状全般 3)親御さんの厳しい生活指導 4)「頭痛、めまい、ふらつき、吐き気、耳鳴り、強い首や肩のコリ、腰痛、生理痛、多動、不注意、睡眠障害、慢性疲労等など」を時系列に沿って暴露された方に対して私が対応出来るのは2)及び4)だけでしょう。3)は個人の問題なので早期に是正出来るかもしれません。しかし1)の問題解決は限り無く難しいものと感じます。
中盤でも書いていますが、向精神薬はイジメられ心身に疲弊を起こした結果生じた疼痛性・非疼痛性症状に対して治療目的として服薬するのではなく、元来の使用法である鎮静や鎮圧目的として、イジメた側の処罰名目で行動抑制を目的に服薬してもらう使い方が正しいのではないかと思います。心身を傷めた被害者が向精神薬をヘロヘロになるまで飲み、学校に行っても何れ破綻するのは目に見えています。
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不登校の言葉が存在する意味は、登校する事が大前提である風潮があり、又は登校者数と比較して少数派に位置付けられる事から不登校と言う名称が付いている事に由来すると思います。考え方によっては、学校が存在しなければ不登校と言う名称も存在しない、と言う事です。
不登校だから良くないと言う風潮もあるようですが、登校しているから良いと言う理由も特にないと思います。登校途中及び登校先でのハコの中で起きているトラブルが最も多層となる為、加害者側は登校層になるのですから。この数字が不登校者>登校者となり、且つその不登校者層で一層の社会貢献をしていれば、流れは逆になるかもしれません。
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何故トラブルに発展するかも考えなければなりそうです。それは登校する意義です。一般的には必修科目含む履修科目に対しての単位取得の為に出席し、出席数に応じて定期(不定期)試験を受験し、合格点に至る事で進級するのが学校だったと思うのですが、その前段階で、及第点に応じた学校選択、又は専門領域に応じた学校選択があり、入学してから初めてその段階で後ろ向きの姿勢になるか前向きの姿勢になるか、結果的に入ってみたら少し違ったか、それとも予想以上に良かったか、と言うのは個々(学生)の感性や知識レベルで異なってくると思います。
学ぶ事が多ければ学校と言うハコに対して良い意味での執着は生まれるかもしれません。給料が良い、待遇が良い、安定している会社だと心身共に落ち着くケースが多い会社も同じものかもしれません。このように、(入ってはみたが…、又は仕方なく…)学ぶ事が無い、自己の感性と異なるマイナスが存在している場合、既にハコに対しての執着は存在せず、ハコの中での提案(この場合は学業)以外に対して視線は送られる、興味を引く理由を探す事になるかもしれません。
ハコの提案に興味がなく、視線を送れなくなっている状態の精神状態に対し、更に人間関係でトラブルが生じれば、マイナスにマイナスが重なる訳ですから、学校や会社含め、登校や出社に興味が無くなると言えば自然な話かもしれません。しかし、1人が興味を無くしたらからと言っても、その事で学校側が変われるかと言えば、多くは無理な事かもしれません。会社が個人の為に変化してくれる、と言う事は少ないのと同様にです。集団で動き利益を出すには集団で統一した思想を持って動かなければならないのですから、その個が異なる意見を提示しても(受け入れる事も沢山あると思いますが、不利益に繋がる事はしないと思います)、意見が通り難いのと同様、学校も学校で学生に対して提案や提示、学び方、学ばせ方と言うのがきっとあると思います。
そこにはきっとプラマイである程度の許容ラインは存在するかもしれませんが、そこを大きく上か下に外れると、その学校や会社が持つ思想とは異なってくると思います。それは試験点数だけではなく、それ以外の時間の過ごし方も評価対象になるかもしれません。何かに集中して取り組み過ぎても病気、何にも興味を持たず遊び歩いても病気と、精神医療は都合良く出来上がっていますし、精神医療は自己の許容ラインを超えた人間を目の当たりにした時、その超えた人間を病気にさせる事も出来ると言う、用いる人間にとっては使い勝手の良い存在にもなっています。その個を修正、又は制御出来ない場合、精神医療に繋ぎ、病気にしてもらえば、その個を修正、又は制御出来ない人間は責任を逃れられます。病気が大上段になると、病気を理由に出来るからです。
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とは言え、思考が異なるからと中々辞めさせる訳にもいきません。学校と言う存在であれば尚更で、義務教育の場合は辞めさせるって事は出来ないんですよね?詳しく知らないので分かりませんが。高校や大学のように辞めようと思えば辞められる体制だとしても、中々事情もあり辞められないと思います。そうなると、その自身には何が起きるかと言えば無駄なストレスが掛かり続け、自己の疲弊を起こす場合も十分に考えられます。
勿論、外面に向かって発散する(出来る)人もいるでしょうけど、内面に向かっていく場合も勿論あるでしょう。発散出来ない場合、その負担・負荷は全て自身に襲いかかる事になりますから、症状は自身から生まれてしまいます。既にハコの提案や提示に対してマイナス思想を持ち、更にそれに直接的又は間接的にも人間トラブルが生じてマイナスに転じた場合、又はどちらか一方でも生じた場合、どのような解決をすれば良いのでしょうか。未だ答えは出ていませんが、前項の通り、不登校に至った要因の多くは人間関係のもつれと言う結果でした。イジメと言うものです。よくよく考えれば、
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1)イジメられて心身共に疲労して
2)学校に行けなくなって親に怒られて
3)病気じゃないかと病院に連れていかれ
4)向精神薬を飲まされる
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この流れは最悪です。良くありません。向精神薬の使い方の元々の使用方法は鎮静鎮圧目的なんですね。暴れて言う事を利かない犯罪者を牢屋に入れる迄の過程に対し用いられる薬だと言うのに、薬を出される人間が逆なのです。と言う事は、1)の経緯に至らぬ状況を作り上げる必要があるのですが、親分がいなくなっても子分が親分になりと、結局はイジメる層も常に存在し続けると思います。その為、何かしかの策で少数にする事は出来たとしても根絶は不可能である事を前提に考えなければなりません。
ハコの中で起きている事は時折ニュースでも見ますが学校⇒学生、学生⇒学校、学生⇔学生間で起きた身体及び精神的暴力は、例えば傷害罪のように法的に裁かれるケースは極めて少ないものです。多くはナアナアで終わっています。ナアナアで終わるから、SNSなりでの陰湿化へ進んでいます。では、この「ナアナアを無くする事」、且つ「イジメる層は根絶しない」、と言う2つを前提にして考える必要性もあると思います。
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少し話は変わりますが、個が仮に社会的に悪い事をした場合のメディア的視線、発想、及び周囲の第三者的視線で見た場合、例えばその悪い事をした個の風貌が世間一般とは大きく外れていたら「やっぱりね」と言う風潮になり、その悪い事をした個の風貌が極めて世間一般の物差しのど真ん中にいた場合「あの子はそんな事をするように見えない」となります。どちらが我慢して生きてきたかと言えば後者です。我慢しきった結果の世間一般での悪い事と言うのは視覚的又は認知とのギャップにより異様に見える光景に差し向けられますが、我慢し続けた上での反動と言うのは大きなものかもしれません。
しかし、我慢は美徳と言う観点がある限り、そして我慢は美徳と教えられた人間が上に立っている限り、それは鎮痛薬のように抑え込む対処方法しか対策を得ていない、知らない、と言う考えもでき、寧ろ前者の如く時々発散し続けられる環境や心境を持つ人間のほうが良いのではないかという見方も出来ます。とは言え、現状では只ひたすら幼少期から我慢し続ける環境しか取り揃っていない場合、後者の如く見た目は普通で酷く陰湿な人間、酷く陰湿な犯罪と言うが増えてしまうのかもしれません。
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その為、先程の1)~4)の話だとしても、イジメと言う被害を被った人間が病気にされ、更に向精神薬で抑え込まれると言う踏んだり蹴ったりな状況にさせられるのかもしれません。其処にはイジメと言う事象のみならず、骨折とは異なる可視化出来ずともバンバン病人に仕立て上げられる精神医療と言う支配医学の考え方がイジメっ子には非常に都合良く出来ており、そのイジメを傍観している人間にも都合良く出来ており、それを利用する上に立つ人間にも都合良く出来ておりと、加害者が精神医療を利用し、そして被害者が医療を受ける事で更なる悪循環が生まれると言う結末が生じるのかもしれません。
先程も書いた通り、向精神薬の処方を受けるのは被害者ではなく加害者側だと思います。何故イジメられて心身に疲弊を起こした人間が仮に疼痛・非疼痛性症状(精神症状含む)を出したからと言って、ヘロヘロになるまで向精神薬を飲ませられ、学校に無理やり行かなければならないのでしょう。本来は逆で、イジメた側が向精神薬を飲み、行動抑制へと繋げる事が医療としての取り組みでもあると思います。
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法的に処罰され牢屋に入るのと、向精神薬で薬物治療を受けながら精神病棟に入るのと、実情を知れば、加害者は牢屋に入ったほうが将来的には未だ道は開けている事が分かると思います。それ位、向精神薬を中長期的に服薬し続け、更に入院迄させられると道は閉ざされる事を多くの人間が経験しています。
牢屋に入るだけなら何れ社会が許してくれる時も来るかもしれません。しかし、向精神薬で引き起こされた種々害反応と言うのは社会適合出来なくなるほど人生を狂わせ心身を蝕む例が絶えません。その恐怖をイジメる側も知れば更にイジメも減少すると思いますし、その事でイジメられた側の心身の疲弊も自ずと減少し、更にイジメられた側への向精神薬処方も無くなれば、それだけでも解決への道は少し広がるのではないかとも思います。
人間は時として心身を傷め、その事で自然発症性の心身の疲弊に伴う疼痛性・非疼痛性症状は出るタイミングと言うのはあるかもしれません。しかし、向精神薬が絡んだ症状よりも相当早期に回復するのは事実です。しかし、現行は向精神薬が加害者への処罰目的としての位置づけではなく、被害者への治療目的として標榜されている事から、一層の症状の混迷が極まっているのは事実ですし、初期段階で副作用等で服薬拒否があれば未だしも、長らく飲んだ結果、それに伴う害反応を抱えれば、学校すら行けない程の身体状態に陥ります。
大人ですら向精神薬の害反応で動けなくなった方々は大勢いるのに、体力的にも弱い年代に害反応が生じた場合、学校どころではなくなります。しかし、その多くは害反応である事を認めない、知らない、病気が悪化したと捉えるケースは年代問わず起きている事です。
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では此処までをまとめますと
1)向精神薬を飲む側はイジメられた被害者が治療目的に飲むのではなく、イジメた加害者側が処罰目的で飲むと言う元来の利用方法に戻す
2)ハコの中でのナアナアを無くし、牢屋行くか精神病棟に行くかの2つの選択提示。どちらも行きたくないからイジメも減少
3)仕事が好きな人は24時間仕事をしていても未だ仕事をしたいように、学校へ登校する事が良なのではなく、本人が好きな事をし続けているのが良。学校行っても毎日寝ているだけなら行っていないのと同じ
4)その興味は何処にあるか子どもは未だ知らない。どんな学業があるか、どんな仕事があるかを知る為に、早期段階で興味を見つけさせるのは必要不可欠
5)その興味に集中出来れば、外野が何と言おうが関係なく集中し続けられるからイジめる対象にはなりにくい。被害者が反応するから加害者が興味を示すのであり、無視していれば火は勝手に消えます
※残念ながら物事に集中し続けている人間は現行医療が病気と判断する場合もあり。そこの折り合いは周囲の人間のフォローで簡単に解消出来ると思います
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不登校にも質があると思います。私自身は不登校と言う大カテゴリだけを見てダメとは思えないですし、学校が面白くなく、その時間を自分の好きな事に費やして発展を遂げられているのであれば、それは将来的に学校に行っているよりも余程価値のある事かもしれません。学校に行く事が偉い訳ではないのですから。
問題なのはイジメ等を筆頭に人間関係にトラブルが生じ、学校に行きたくても行けない状態に陥った場合であれば、その対策は必要かと思います。針治療を受ける、と言う状態と言うのは、何かしかの症状を抱えての為、私に入る不登校背景は後者しかありませんが、どうしても此処で針治療の時間を通して見え隠れする部分としては、患者(この場合はお子様)と親御さんとの目的に対しての意識の差なのかもしれません。疼痛性・非疼痛性症状共に、その症状は患者しか分かりません。幾らお父さんでもお母さんでも、子の症状の度合いは共有出来るものではありませんし、治療を受けるにしても、多くは、その子が主導となり治療は受ける事にはならず、親が主導となり、子に治療を受けさせます。
子に治療と言うコストを割いた、その期待は時に過度に向かう事もあり、時に「治療を受けたのなら学校へ行け」と言うベクトルに向いてしまう事もあり、又はその逆に、子が「治療を受けたのだから学校に行かなきゃ」と言う強迫観念に苛まれ、結局はマイナス方向に向かう事もゼロではないものです。このような事例が少なくないのも、骨が折れている等とは異なり、可視化出来ない症状である事、そして親御さんの子に対しての不安や焦燥からくるものかもしれません。勿論、他にも理由はあるでしょう。
例えば脊椎の変形が著しく、膝OAを抱えた80歳と、脊椎にも膝にも変形のない80歳であれば生活スピードも異なりますし、団体行動と称して同様な運動や体操をさせても前者は付いていけず、無理をすれば余計関節破壊が進行するのと似たようなもので、各々キャパシティは異なります。しかし、現行医療は鎮痛薬を高齢者に処方し、歩け歩けと促し、気付いたら薬物耐性が生じ、更に関節破壊は進行している例は多いもので、痛みと言う大切な危険信号を気づかせず、個の痛みを抑え付け、無理にレールに戻す事は良くない将来を生みかねません。
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個には個の生きていくスピードがある事を前提に考えれば、確かに期待と不安を紙一重に感じながら時間が進む事はあるかもしれませんが、その多くは個自身の持つ感情ではないという事。妄想と責任逃れで大人は生きている事を再度私たちは自覚し、自覚してもらえば、早い段階でなるだけ本人の希望は沢山聞きたくもなりますし、それに沿った何かも又新たに提案出来るのかもしれません。

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イメージ 1 ~針治療から病態定義の見直しを~